華僑強制献金とは? わかりやすく解説

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華僑強制献金

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 07:56 UTC 版)

華僑強制献金(かきょうきょうせいけんきん)とは、1942年3月から6月にかけて、日本軍(第25軍)占領下のマラヤ各州やシンガポール(昭南特別市)ならびに日本軍(第37軍)占領下のボルネオ島で、軍政部が、華僑協会などの対日協力組織を通じて中国系住民に強制した、日本軍への献金のこと。単に華僑献金強制献金献金事件、特にマラヤ・シンガポールでは目標とした献金額から5,000万ドル強制献金(ごせんまんどるきょうせいけんきん)とも呼ばれる。[1]


  1. ^ この記事の主な出典は、明石 (2001, pp. 39-45,78-81)、原 (1987, pp. 90-93)、篠崎 (1976, pp. 60-70)、陳 & 1973-07-31篠崎 & 1972-09-12篠崎 & 1972-09-11Tan & 1947-06-13およびTan & 1947-06-12
  2. ^ 軍政部の総務部秘書科に所属し、同年2月下旬に設立された華人の対日協力団体・昭南華僑協会の顧問となっていた(Tan & 1947-06-12
  3. ^ Tan & 1947-06-12.
  4. ^ 篠崎 (1976, pp. 60,61)は、3月1日付でマライ軍政部部長・馬奈木敬信が突然転出になり、かわって軍政部部長となった渡辺によって献金の強要が行われた、としているが、原 (1987, p. 91)は、馬奈木のボルネオ守備軍参謀長転出は同年4月10日付であることから3月1日付での異動に疑問を呈しており、第25軍軍政部 (1942)によれば渡辺の軍政部長昇進は同年4月8日とされている。また篠崎 (1976, pp. 62-63)では、篠崎護は3月上旬に渡辺に呼び出されて華僑協会を軍政部の直轄とするので市政庁に属する篠崎は協会に関与しないようにと厳命され、それ以来協会を離れたため、その後で献金の強制が行われるとは「夢想だにしなかった」としているが、前述のとおり渡辺の軍政部長昇進は4月初旬の出来事で、それより前の馬奈木軍政部長時代に献金の強要は開始されており、華僑協会は当初から(すなわち、篠崎が協会に関与していた時期に)献金を推進していた、と考えられている(原 1987, p. 91、陳 & 1973-07-31)。また篠崎 & 1972-09-12では、篠崎は、「献金の対象者」のリストを作成して華僑協会の理事長で「献金主任」となっていた呂天保に渡し、その後は協会から遠ざかった、としている。
  5. ^ 篠崎 (1976, p. 63)は、軍政部は、英国時代に発行された海峡ドル英語版が市中に相当量隠匿されていると考え、軍票の浸透のためにこれを回収し、華僑が行った抗日献金を帳消しにする代わりに日本軍へ献金させることを考え出した、としている。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m Tan & 1947-06-13.
  7. ^ Google Maps – Nassim Road, Singapore (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2016年4月7日閲覧
  8. ^ 陳 & 1973-07-31は、高瀬の要求額は1億元で、そのうち5,000万元を4月末までに納付するよう命令された、としている。
  9. ^ Tan & 1947-06-13。内訳は、
    シンガポール 10(百万ドル、以下同じ)
    セランゴール 10
    ペラク 8
    ペナン 7
    マラッカ 5.5
    ジョホール 5
    ヌグリスミラン 1.5
    ケダ 1.1
    パハン 0.9
    クランタン 0.5
    トレンガヌ 0.3
    プルリス 0.2(同)。
  10. ^ 篠崎 (1976, p. 65)では、天長節(4月29日)前後に割当てが発表された、としている。
  11. ^ Tan & 1947-06-13。日本軍は、海峡植民地生まれの華人は市政庁(篠崎護)、中国生まれの華僑は軍政部(高瀬、黄堆金)の所管とし、2つのグループは華僑協会の主導権を巡って争っていた(Tan & 1947-06-12)。
  12. ^ 篠崎 (1976, p. 63)は、高瀬が、財産の8%を献納させ、目標額を5,000万ドルとする案を協会に提示した、としている。
  13. ^ a b 明石 2001, pp. 43-44.
  14. ^ 国庫供託金 1,500万円
    難民救済住民供託基金、当初3ヶ月間の民政管理補助金 500万円
    民族、文化、産業、経済、その他基本的研究費 300万円
    道路、港湾施設、橋梁復旧費 1,000万円
    南方建設を目的とした青年人材養成教育機関設置、維持費300万円
    「建設公債」発行資金1,000万円
    華僑銀行再開資金400万円
    明石 2001, pp. 43-44)
  15. ^ Tan & 1947-06-13。1例として、林博士への献金の割当額は2,200ドルだったが、林博士は支払いに充てるだけの現金を持っていなかったため、最終的にかつての彼の教え子に献金を立て替えてもらっていた(同)。
  16. ^ 篠崎 (1976, p. 65)は、英国が降伏直前に1億ドルの紙幣を焼却し、地元の銀行は閉店したままだったため、現金が手許になかった、としている。また同書では、軍政部が地元の銀行の開店を許可し、南方開発金庫から軍票を借り入れて営業を再開させた、としている
  17. ^ Tan & 1947-06-13。高瀬は協会の指導者を叱咤し、特に華人グループの献金額が少ないと聞いて同グループの分科会の会長を一時監禁した(同)。
  18. ^ Tan & 1947-06-13。会議後、マラッカ州の代表2人が、同州の経済規模に比して割当額が大きすぎ、目標額を集められないと説明しようとしたところ、軍司令官の事務所で拘束され、監禁された(同)。2人は黄堆金のとりなしにより解放されたが、以後献金活動に敢えて抗議する者はいなくなった(同)。
  19. ^ 篠崎 (1976, p. 64)では、3月下旬の会合で各州の華僑協会に献金が指示された、としている。
  20. ^ 当時昭南タイムズ編集長だった井伏鱒二は、この会議の様子について「折から私は、昭南タイムズの責任者として華僑記者とユーラシアン記者を連れ、キャセイ・ビル英語版の大東亜劇場で開かれたマレー各州の華僑協会の登録代表者たちの招かれている会に出席した。華僑たちは白けきっているような様子に見えた。華僑たちのうち舞台に出て演説したのは華僑協会長の林文慶博士1人だけで、しかも声が小さいので後ろの方の席には聞えなかった。連れの記者たちも通訳してくれなかった。」と記している(井伏 1998, pp. 271-272)。
  21. ^ 第25軍軍政部 1942.
  22. ^ 軍政施行上の諸規定方針 計画領等綴 昭17.2.13~19.1.30 3.華僑工作実施要領 日附なし 第25軍軍政部 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C14060608800 
  23. ^ 篠崎 1976, pp. 68-70.
  24. ^ 篠崎 (1976, pp. 68-70)。通達内容の受け止め方は各州の長官によってまちまちで、例えばペラ州では通達どおりの政策を実施したため住民の反感を買い、マレー半島でも最も反日感情が強い地域となった、という(同)。
  25. ^ 渡辺は、フラトン・ビルに軍政部を移した、とされる(篠崎 1976, p. 61)。
  26. ^ Tan & 1947-06-13。一部は現金(海峡ドル)ではなく、金地金やゴムで納付された(同)。
  27. ^ 篠崎 (1976, p. 66)は、シンガポールに割り当てられた1,000万ドルは集まったが、各州ではなかなか目標額に達せず、特に献金の少なかったマラッカ州ペラ州では責任者が度々留置された、としている。
  28. ^ 山下奉文が第25軍司令官から転出する1週間前(明石 2001, p. 43)
  29. ^ 待っている間に林博士が失神した(Tan & 1942-06-13)。篠崎 (1976, p. 67)は、林博士は山下に小切手を渡した後に脳貧血を起こして倒れ、式場から運び出された、としている。
  30. ^ 篠崎 (1976, p. 67)は、献辞は高瀬によって8回も修正を命じられ、内容も侮辱的なものだった、としている。
  31. ^ 明石 (2001, p. 43)。Chin, Kee Onn (1946). Malaya Upside Down. Jitts. p. 83 からの引用として。
  32. ^ 洪 1986, pp. 20-21.
  33. ^ Tan & 1947-06-13。山下は、「日本人は神(天皇)の子孫であり、欧米人はダーウィンが充分に説明しているように猿の子孫である。神と猿が戦争をしたとき、どちらが勝つかはどんなバカでも分かるだろう」と言って話を締め括った(同)
  34. ^ 馬 (1986, pp. 145-148)では、1942年7月初め頃、南天バザールの「大和劇場」(後の大華劇場)で、歌や踊りの余興付きで献金奉納式の余興が行われ、林文慶博士は式典の前から「たえず入口のほうに歩いたり、また舞台に上がったり、そうかと思えば舞台から降りてまた入口のほうに歩いたりしていた。しかも、酔っ払ったように、歩きながら歌ったり踊ったりはねたりして、とても見ていられない醜態だった」といい、山下泰文中将の入場・登壇後、「何かふたこと、みこと口にしながら」小切手を差し出し、受け取った山下は「簡単に何かしゃべった」。式典が終了した後も林博士は「何回もペコペコし、体の震えも止まらなかった。山下が会場から出て行っても、林はまだ頭を上げようとしなかった」としている。
  35. ^ 支店長は武藤周太郎(篠崎 1976, pp. 67-68)または藤岡太郎(明石 2001, p. 80)。
  36. ^ 篠崎 1976, pp. 67-68.
  37. ^ 菊地 1999, pp. 126-127,135-136.
  38. ^ 明石 2001, p. 43.
  39. ^ 明石 2001, pp. 44-45.
  40. ^ 明石 2001, pp. 72,80.
  41. ^ 明石 2001, p. 45.
  42. ^ 同軍占領地区では、これより後の1942年8月に華僑協会が結成された(原 1987, pp. 91-92)。
  43. ^ 原 1987, pp. 91-92.


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