華僑の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:07 UTC 版)
ヨーロッパ人支配者の介入によって財政難に陥ったジャワの王族・貴族たちは、植民地政庁の下で勢力を伸ばしていた華僑の商人たちに経済的に依存するようになった。王族・貴族たちは借金の抵当として華僑商人に領土の徴税権を譲渡するようになり、外国人の保護・監督権を有していた植民地政庁の影響力も合わせて増していった。華僑はジャワ王家が分立する前のマタラム王国時代からコメ・チーク材の輸出商人や徴税人としてジャワ王家に仕え、オランダ東インド会社の下ではアヘン取引の独占権を与えられるなど、一定の影響力を有していた。明の崩壊後はジャワへの移民が増加し、各地に中国人首長を中心とする華僑社会が形成され、徴税人として仕えることでジャワ王家の主要な収入源として重視された。 1812年6月のイギリス軍のジョグジャカルタ攻略の際には、中国人首長タン・ジン・シン(インドネシア語版)がイギリス軍に食料を援助し、タン・ジン・シンはその功績により「ラデン・トゥムングン・ スチャディニンラト」の名前と上級貴族の地位及び領土を与えられ、ジャワ宮廷における華僑の影響力が増すことになった。領土を得た華僑たちは通行税・市場税などの徴税を拡大していき、そのためコメの価格高騰や流通停滞を招き、ジャワ戦争直前には徴税所が暴動で焼き討ちされるなど華僑への反感が高まっていた。
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