大沽口事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 14:36 UTC 版)
大正15年(1926年)3 月、中国では中国国民軍と奉天派軍閥が戦闘を繰り返していた。同月12日、日本は奉天派を援護するという名目で軍艦多数を中国国民軍の駐屯する天津大沽口に派遣し、陸上の中国国民軍に対して艦砲射撃を行った(大沽口事件)。この事件で派遣されていた蒲田司令の率いる第15駆逐隊は中国の大沽沖に停泊していたが、大沽沖に停泊していては迅速な連絡ができないうえに風波が強いとして、蒲田駆逐隊司令は艦隊司令の許可を待たずに駆逐艦藤、薄からなる艦隊で大沽口への侵入を強行した。その遡行中に中国国民軍から猛烈な射撃を受けたため、藤の機銃で中国側の陸上砲台に応戦して同砲台を沈黙させた。また、同じ青森県出身で軍令部第三班長であった中村良三少将も現場に駆け付けた。この戦闘で藤に座乗していた蒲田司令、主計長、兵の3名が負傷し、中国国民軍側でも8名の負傷者が出ている。
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