主張の根拠
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本多勝一らは、「百人斬り競争」の事実は次のような各種資料に裏付けられている、と主張した。 当時の新聞等の資料(東京日日新聞の記事) 東京日日新聞の記事以外にも、次のような報道がされている。野田少尉の中村硯郎あての手紙が紹介されている。その中で、「百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出来た」こと、南京入城までに「105斬った」がその後「253人叩き斬った」として「百人斬り競争」の事実を自認している。 野田少尉が帰国した際の記事では「374人を斬った」として野田少尉が「百人斬り競争」について詳細に語っている。 向井少尉は、「今度は千人切りである」「野田少尉と別れてから約束の五百人斬りを果たすため、一生懸命やっている」「今までに305人斬りました」と述べている。 野田少尉の父、野田伊勢熊は昭和42年6月の段階で野田少尉が「南京入城前に百人斬り競争を同連隊の向井少尉となし」たことを認めている。 野田少尉と同じ中隊に所属していた望月五三郎は手記『私の支那事変(私家版)』(P42-45)に、野田少尉が非武装の一般農民を斬ったこと、支那人を見つければ向井少尉と奪い合いをするほどエスカレートしたこと、を記している。 志々目彰は、「中国」1971年12月号に投稿した論稿の中で、野田少尉の講演内容を「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ。実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない。占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて、片っぱしから斬る。百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ。」と紹介している。そして、志々目彰の同級生であった辛島勝一は志々目にあてた手紙の中に、野田が捕虜を斬った話をしていた旨を記している。 2少尉が作成した遺書の中でも、2少尉が「百人斬り競争」について話したことにより新聞記事になった、と認めている 浅海、鈴木両記者及び佐藤振壽カメラマンの論稿では、記者が二人の少尉から聞いた話を記事にした、と一致して述べられている。 南京攻略戦においては、捕虜や一般民衆に対する殺害はごくありふれた現象だったことを示す資料は多数存在している。 以上に示した各資料は、野田らが農民等を殺害した現場を目撃した資料、野田少尉が「百人斬り競争」をなし、捕虜を殺害した旨離した資料、両少尉が取材記者に対して自ら「百人斬り競争」について語っていた資料であり、更にはこれらの資料を裏付ける資料の存在などお互いの資料が支えあい、補い合って「百人斬り競争」の事実と捕虜の殺害の事実を明らかにしているのである。
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