「第五章」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/07 09:37 UTC 版)
第五章では、「脱亜論」が第2次世界大戦前には有名でなかったことを示している。「脱亜論」は1885年(明治18年)3月16日に『時事新報』に無署名の社説として掲載された。平山の調査によると、同年3月16日以後の『時事新報』には、「脱亜論」に関する引用は発見されていない。また、同年3月17日から3月27日にかけて、新聞『東京横浜毎日新聞』、『郵便報知新聞』、『朝野新聞』にもコメントが発見されていない。その結果、平山は1885年には「脱亜論」は何の反響も引き起こさなかったと推定している。その後、1885年(明治18年)から1933年(昭和8年)まで「脱亜論」に関するコメントは発見されていない。そのため、平山は、「脱亜論」は48年4ヶ月の間、忘れられていたと推定している。1933年(昭和8年)7月、「脱亜論」が昭和版『続福澤全集』第2巻(岩波書店)に初めて収録された。1933年(昭和8年)から1951年(昭和26年)までの間、「脱亜論」に関するコメントは見つかっていない。平山の調査によると、「脱亜論」は1951年(昭和26年)に遠山茂樹が発見したものである。ここで言う発見とは最初に論文の中でコメントしたという意味である。すなわち、遠山は「日清戦争と福沢諭吉」(『福沢研究』第6号)の中で「脱亜論」を引用して、「脱亜論」を日本帝国主義のアジア侵略論と紹介した。1960年(昭和35年)6月に、富田正文・土橋俊一編纂の現行版『福澤諭吉全集』第10巻に「脱亜論」が収録された。1963年(昭和38年)8月に、中国文学者の竹内好は『アジア主義』(現代日本思想大系第9巻)(筑摩書房)の解説「アジア主義の展望」に「脱亜論」の全文を引用している。1967年(昭和42年)4月に、西洋思想史研究者河野健二の『福沢諭吉――生きつづける思想家』(講談社)が発行された。また、1967年(昭和42年)12月に、鹿野政直による『福沢諭吉』(清水書院)が発行された。両書は「脱亜論」へのコメントを含む新書版であったため、それ以来、「脱亜論」は日本帝国主義の理論として一般に有名になった。すなわち、「脱亜論」が一般に有名になったのは1960年代なのである。そうして、1970年代には同様なコメントをつけた論説が数多く発行されるようになったのである。 1981年(昭和56年)3月に、政治学者の坂野潤治は『福沢諭吉選集』第7巻(岩波書店、ISBN 4-001-00677-4)の解説で、「脱亜論」の新しい解釈を提示した。坂野は「脱亜論」を朝鮮近代化の挫折に対する敗北宣言と解釈した。平山もこの解釈に従い、「脱亜論」が発表された当時の歴史的背景に沿って解釈することが重要であると注意している。すなわち、発表当時は李氏朝鮮による甲申政変後の過酷な事後処理が進行している時であり、「脱亜論」の後半が「脱亜論」の約3週間前の1885年(明治18年)2月26日に発表された「朝鮮独立党の処刑(後編)」の要約になっていると解釈している。平山の解釈によれば、「脱亜論」中の「支那人ガ卑屈ニシテ耻ヲ知ラザレバ」という部分はソウルに侵攻した清国進駐軍のことであり、「朝鮮國ニ人ヲ刑スルノ慘酷ナルアレバ」という部分は李氏朝鮮政府による過酷な刑罰を示しているのであって、福澤のアジア蔑視表現と解釈するのは間違いなのである。
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