政権交代後とは? わかりやすく解説

政権交代後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 00:14 UTC 版)

鹿野道彦」の記事における「政権交代後」の解説

2009年第45回衆議院議員総選挙では遠藤破り国政復帰果たした。ただし、過去遠藤破った第42回衆議院議員総選挙比べて票差は小さく、約2,000票の僅差まで詰め寄られた(遠藤比例復活)。この選挙により民主党政権交代果たし鹿野羽田内閣以来15年ぶりに与党復帰果たした9月衆議院予算委員長就任12月発生した天皇特例会見問題では予算委員長として政府対し天皇の公的行為に関する統一見解を出すよう要請した2010年9月菅改造内閣21年ぶりに農林水産大臣就任し通算3度目入閣果たした。なお、この内改造先駆けて行われた民主党代表選挙では、支持する候補者明らかにしていなかったが、菅直人再選により一時鹿野民主党幹事長への起用取り沙汰された(結局は岡田克也外相就任)。 2011年1月改造内閣発足際し菅直人首相推進立場を取るTPP環太平洋パートナーシップ協定に対して、「アジア太平洋経済連携にはTPP以外の選択肢もある」と態度明確にしていなかったため留任は微妙との見方もあったが、最終的に留任した諫早湾干拓事業漁業関係者らによる有明海環境変化とそれによる漁業被害を巡る裁判福岡高等裁判所2010年12月6日、「5年間の潮受け堤防排水門開放」を国に命じ判決言い渡した2011年1月15日菅首相農林水産省考え覆し上告断念する表明したことで判決確定した佐賀県この上断念高く評価したが、長崎県防災農業経営継続という観点から強く反発した鹿野意思とは異な総理決断であったが、1989年諫早湾干拓事業着工した際の農林水産大臣であったこともあり、閣僚一人として長崎県開門反対派謝罪するため1月23日長崎県諫早市訪問した中村法道長崎県知事抗議をはじめ2時間半にわたる怒声の中で鹿野は「皆様方に申し訳ない」と何度も謝罪した2011年2月反捕鯨団体シーシェパードSS)」が南極海日本の調査捕鯨船妨害行為続けている問題で、執拗な攻撃からの調査団員、船員安全確保第一であるとし、南極海での調査捕鯨活動やむなく中止し船団早期帰国させることを決めたが、同年12月には調査再開させ2012年調査日程通り実施されている。 閣僚不祥事不手際などで低迷続いた菅直人内閣の中では安定した仕事ぶりで、農林水産大臣として事務方評価高かった民主党参加以降は必ずしも代表候補とはみなされていなかったが、党内数少ない経験豊富議員であること、激しい対立繰り広げていた執行部小沢派どちらとも等距離を保つ中間派とみなされていたことから、2011年初頭から「ポスト菅」として鹿野の名前が一部報じられていた。同年8月菅首相退陣意向表明すると、有志議員19日代表選への立候補要請鹿野も「政治人生の中で最も重い要請頂いた」と前向きに応じ構え見せ熟慮重ねていた。 8月26日首相退陣正式に発表したことを受け、2011年民主党代表選挙への出馬正式に表明大畠章宏国土交通大臣選対本部長迎え翌日立候補届け出る記者会見において、消費税経済状況好転しない限り増税しないことや、原発は安全を点検し情報開示した上で稼動理解を求めることを主張した選挙戦では、海江田万里経済産業大臣との決選投票になった場合に反小沢票が鹿野に集まることを警戒した海江田陣営切り崩し遭う8月29日行われた投票では立候補者5人中52票で4位。野田佳彦海江田万里の2名による決選投票では、上着脱いで野田への投票合図し野田代表選出一役買った鹿野事前に決選投票になった場合に、最後演説聴いて上着脱げば2位候補に、脱がなかったら1位の候補支持」と伝えていた。また、鹿野支持するグループ一致して投票することを確認しており、事実上この行動代表選勝敗決めたといえる)。 代表選後の8月31日自身支持した議員35と共に政策グループ鹿野グループ)を立ち上げ9月16日に「素交会」と命名9月2日野田内閣発足に際しては、当初農水相退任意向示し後任筒井信隆農林水産副大臣推薦していたが、野田首相の強い意向を受け、農林水産大臣再任また、鹿野グループからは前田武志国土交通大臣として入閣果たした2012年1月野田改造内閣においても鹿野前田共に留任した鹿野農水相就任直後から農産物海外輸出推進し、特に中国に対して筒井副大臣その実にあたってきた。しかし、その運営には疑惑の目が向けられることがあり、2012年2月には衆院予算委員会で、鹿野グループ属す樋口俊一衆院議員公設第一秘書当時)が、農水省顧問秘書身分のまま就任し社団法人設立後、その代表理事就任したことについて、自民党議員より「自作自演天下りみたいなものだ」と追及されている。このときには大きな問題とはならなかったが、同年5月には中国一等書記官がこの事業通じて農水省機密資料入手したとの報道がなされ(李春光事件)、スパイ疑惑のある人物接触したことで激し批判浴びた農水省岩本司副大臣トップとする調査チーム発足させ、一気政治問題化した。最終的に農水省調査チームにより機密漏えい確認されなかったことが報告されたが、直後6月行われた内閣改造鹿野留任せず、農水相退任した同時に筒井副大臣問責決議受けていた鹿野グループ前田国交相交代)。「呪われたポスト」と呼ばれ汚職罷免果ては自殺により短期間交代することの多かった農水相を、近年では珍しく1年9か月にわたり勤めあげた。 農水相退任後の7月24日鹿野篠原孝(元農副大臣)、山下正行農水省大臣官房総括審議官と共にフランス政府より農事功労章シュヴァリエ)を授与された。 2012年9月行われた民主党代表任期満了に伴う代表選挙において、鹿野グループとしては「民主党復活会議」の推す候補支持する動きや、細野豪志環境大臣立候補をめざす動き見られたものの、最終的に復活会議」は候補者擁立断念細野環境相不出馬表明したことから、代表の鹿野昨年引き続き立候補。「おおらかで、あたたかい国・日本」というキャッチフレーズ掲げて支持訴えたものの、出馬遅れたことなどから立候補者4名(鹿野野田原口一博赤松広隆)中の最下位に終わる(ただし、国会議員票は現職野田に次ぐ2位)。選挙後、「党内融和」を唱える野田代表のもと、10年ぶりに党副代表復帰した

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政権交代後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 00:15 UTC 版)

松崎公昭」の記事における「政権交代後」の解説

2010年には衆議院政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会委員長就任同年民主党代表選挙では小沢一郎一票投じる。この投票について松崎は「参議院のねじれを解消できるリーダーどちらか民主党分裂させない結果をつくるにはどうしたらよいか」を考えた結果としている。 2011年民主党代表選挙では、農林水産大臣鹿野道彦立候補要請し推薦人名を連ねる鹿野について松崎は「十数年の鹿野さんとのお付き合いの中で、人間としての「味」「温かさ」という、今の民主党政治家に欠けているのではないかと私が考えている資質鹿野さんには非常に豊かであることを私は知ってます。人間としての「味」「胆力」そして人間の「幅」を持」つと評価している。鹿野敗北したものの、代表選後の素交会鹿野グループ結成参加した明日の安心対話集会参加 その後同年9月成立した野田内閣では総務副大臣就任総務副大臣として情報通信放送郵政担当。これについて、「これまでの政治活動から、地方分権地域主権担当する思ったが、郵政放送電波ICT情報通信技術)の担当になった。これらは将来日本成長分野なので、海外展開目玉となるようにしていきたい」と語っている。 2012年10月内閣改造に伴い総務副大臣退任民主党政策調査会副会長就任同年12月第46回衆議院議員総選挙では、前回下した桜田義孝敗れ比例復活ならず落選2014年、党の「70歳定年制」を理由政界から引退する伝えられた。その後、その年の第47回衆議院議員総選挙において千葉8区から立候補をし、比例南関東ブロック復活当選をした太田和美後継者として指名2018年春叙勲旭日重光章受章同年6月29日3時8分、食道がんのため千葉県柏市病院死去74歳没。叙正四位2019年4月三男松崎太洋千葉県議会議員選挙柏市選挙区より立憲民主党公認立候補し初当選果たした

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政権交代後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 03:59 UTC 版)

次の内閣」の記事における「政権交代後」の解説

次の閣僚』は、民主党単独政権交代実現した場合そのまま内閣構成する閣僚名簿になるか明確にされてこなかった。2009年8月総選挙民主党大勝したが、翌月鳩山由紀夫内閣発足時に当時の『次の内閣』のメンバー入閣したのは、20人中6人だけであった。この点は自由民主党シャドウ・キャビネットにおいても同様で、実際第2次安倍内閣入閣したのは、「安倍晋三シャドウ・キャビネット」の17人のうち甘利明稲田朋美新藤義孝の3人のみで、いずれも担当職が異なった

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政権交代後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:54 UTC 版)

ETC割引制度」の記事における「政権交代後」の解説

2012年12月16日執行され第46回衆議院議員総選挙民主党大敗自民党公明党与党返り咲いたが、民主党政権時に変更され利便増進事業割引計画再変更されず、2014年3月末を期限とされたNEXCO3社本四高速時間帯割引延長されることなく終了した同時に会社負担実施割引についても大きく見直された。また、本四高速への全国共通料金水準導入は、全国路線網編入することで、当面10年ETC車限定実施されることになった。なお、これは正式に割引ではないが、ETC料金適用される場合料金所路側表示器に「割引」の表示が出る。 2013年度末が期限だった首都高速阪神高速割引は、首都高速2015年度まで阪神高速2016年度までにそれぞれ延長された。

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政権交代後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:39 UTC 版)

小川敏夫」の記事における「政権交代後」の解説

2010年2月10日に、小沢一郎民主党幹事長らによる陸山会事件西松建設事件など民主党議員による汚職事件続発すると、小川事実関係解明調査するチームではなく報道機関への検察リークがあるのかどうか調べる「捜査情報の漏洩問題対策チーム」を発足させ、座長就任した小川チーム意義について「東京地検特捜部情報リークしているという民主党主張国民理解得られれば、目的達せられる」と説明したため、野党から言論報道の自由侵害する」と猛反発受けた2010年2月27日に、2010年の夏に第22回参議院議員通常選挙控えている6人の参議院議員と『企業・団体献金全面禁止目指す研究会』を発足させ、会長就任した2010年夏の参議院選挙終了後民主党は「企業・団体献金全面禁止する政治資金規正法改正にめどが立たたない」として、自粛していた企業・団体献金受け入れ再開することを決定した小川自身選挙公報に於いて過去一度企業献金受け取っていないと述べている。 2010年4月27日に、鳩山由紀夫首相政治資金管理団体友愛政経懇話会」を巡る政治資金規正法違反事件において、東京第4検察審査会鳩山首相を「不起訴相当」とする議決を出すと、「ほっとした。(鳩山首相元公設第1秘書有罪判決言い渡されていることから)議決不幸中の幸い」と話した

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