リー【Bruce Lee】
ブルース・リー
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| ブルース・リー 李小龍 Bruce Lee |
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|---|---|
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| 基本情報 | |
| 繁体字 | 李小龍 |
| 簡体字 | 李小龙 |
| 漢語拼音 | Lǐ Xiǎolóng |
| 粤拼 | Lei5 Siu2 Lung4 |
| 出生名 | 李 振藩(リー・ジェンファン、り しんはん) 拼音: 粤拼: Lei5 Zan3 Faan4 または lei junfan[注 1] |
| 出身地 | |
| 生誕 | 1940年11月27日 |
| 死没 | 1973年7月20日(32歳没) |
| 墓地 | レイク・ビュー墓地 |
| 別名 | 李源鑫(族名) 李元鑒(学名) 李鑫(芸名) 李敏(芸名) 新李海泉(芸名) 小李海泉(芸名) 李龍(芸名) 細鳳(幼名) |
| 英語名 | Bruce Lee |
| 職業 | 武道家、アクション映画俳優、脚本家、映画プロデューサー |
| 活動期間 | 1941年 - 1973年 |
| 配偶者 | リンダ・リー(1964年 - 1973年(死別)) |
| 子供 | ブランドン・リー(李國豪、1965年 - 1993年) シャンノン・リー(李香凝、1969年 - ) |
| 親 | 李海泉(1901年 - 1965年) 何愛瑜(1907年 - 1996年) |
| 兄弟姉妹 | 李振輝(1948年) 李忠琛(1939年 - 2008年) |
| 祖籍 | |
| 影響 | チャウ・シンチー(小龍會会長) ドニー・イェン |
| 公式サイト | The Official Website Bruce Lee Foundation |
| 署名 | |
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ブルース・リー(繁体字中国語: 李 小龍〈リー・シァオロン、り しょうりゅう[1]〉、英: Bruce Lee、1940年11月27日 - 1973年7月20日)は、香港人の中国武術家、武道家、俳優、哲学者。截拳道を創始したマーシャルアーティストとして知られる。
本名は李 振藩(リー・ジェンファン、り しんはん、英: Lee Jun-fan)。身長については167 - 175cmと諸説ある[注 2]。墓碑銘は『FOUNDER OF JEET KUNE DO(「截拳道の創始者」の意)』。リンダ・リー(旧姓エメリー)との間に一男一女。息子はブランドン・リー、娘はシャンノン・リー。
生涯
出生・幼少時代
父親の中国系で粤劇の役者の李海泉と、白人(ドイツ人、イギリス人など諸説あり)と中国人のハーフの母・何愛瑜(香港の実業家で香港経済界の大立者何東、何福と異父兄弟である何甘棠[注 3] の娘)が家族を連れて長期アメリカ巡業中、辰年の1940年11月27日、辰の刻(午前8時)にサンフランシスコの中華街の病院で生まれた。5人兄弟の次男。兄弟には、姉フィービー・リー(李秋圓)、アグネス・リー(李秋鳳)、兄・ピーター・リー(李忠琛)、8歳下の弟・ロバート・リー(李振輝)がいる。
生後3ヶ月あまりでサンフランシスコで製作された映画『金門女』(広東語映画)に出演(芸名は小李海泉)。9歳で初主演に抜擢された映画『細路祥』(1950年)で初めて芸名の李小龍を名付けられた[注 4]。本作品では父と初共演を果たす。
その後、イギリス植民地下の香港に帰国。1941年12月から日本とイギリスの「香港の戦い」で日本軍勝利により、日本占領下におかれ映画の製作が止まったために出演作はないが、1945年8月に第二次世界大戦が終了後、製作が再開された8歳頃から子役として数多くの映画に出演した。
詠春拳との出会い
1947年、父親の手ほどきで太極拳を始めるが、長続きしなかった[3]。1955年、功夫を習っている相手に喧嘩で負けたことから、友人・張卓慶[4]の紹介で詠春拳の使い手である葉問[5]の道場に入門[3][6]。当時、中国武術会には「外国人には教えない」という不文律があったため、白人の血(母方の祖父が欧州系)が混じっているリーの入門は最初葉問に断られるが、弟子である張卓慶の取り成しで入門を許される[7]。3年間修練を積んだ頃、張卓慶がオーストラリアに旅立つと、新たに兄弟子・黄淳樑に師事、約2年間個人指導を受ける[8]。1958年、高校ボクシング大会に出場し、3年連続チャンピオンの他校イギリス人を1RでKOする[2][6]。1959年には、中華民国の上海精武体育会香港分会にて4週間、北派少林拳の邵漢生から基本功や足技に富んだ「節拳」「功力拳」等の型を学ぶ[2][3][6][注 5]。
渡米・結婚
何不自由なく育つが、日々喧嘩に明け暮れ、学校でも生徒への暴力や宿題の代行の強要などの問題行動を繰り返していた。勉学の成績がとても悪く、「俳優の不良息子」として悪名を知られた息子の将来を心配した父から、渡米を命じられ、1959年、18歳のリーは香港からシアトルに移り住む[9]。
新聞配達などのアルバイトをしながらエジソン・テクニカル・スクール(現在のシアトル・セントラル・カレッジ)に通い[10]、高校卒業資格を取得。 その後、ワシントン大学に進学して哲学を専攻[10]。また、シアトルで「振藩國術館」を開き、中国武術の指導を始めた[9]。
集まる生徒は日本人や中国人、それに黒人や白人にラテン系もいた。高校で哲学の講師もしていた。その頃、同じ大学の医学生で、道場の生徒だったスウェーデン系イギリス人リンダ・エメリーと結婚[11]。その後、大学を中退し、道場経営に専念。截拳道(Jeet Kune Do/JKD/ジークンドー)を創始する。
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リンダ夫人
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息子・ブランドンと
武道家からアクションスターへ
1966年に、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で詠春拳の演武をしたフィルムが、TVプロデューサーの目に止まり、TVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢される。正義のヒーロー「グリーン・ホーネット」の助手兼運転手として、目の周辺だけを隠すマスク[注 6] をつけた日系アメリカ人のカトー役を演じ、派手なアクションで人気を博す。
これをきっかけに、ロサンゼルスでハリウッドの俳優やプロデューサーを顧客に武術の個人指導をするようになり、TVや映画などのゲスト出演を重ねる[注 7]。『グリーン・ホーネット』の後、アメリカの連続テレビドラマ『燃えよ!カンフー』を企画し、自ら主演を願ったが、東洋人であることなどを理由に叶わなかった[注 8]。
1970年に、香港の大手映画会社のショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)から独立したレイモンド・チョウ(鄒文懐)が設立したばかりのゴールデン・ハーベスト(嘉禾娯楽事業有限公司)と1本1万香港ドルで2本の映画出演の契約をする。翌1971年に、成人後の初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになった。リーは、一躍、香港のトップスターに躍り出る。
主演第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では主演と武術指導を担当し、3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)では、自ら「コンコルド・プロダクション」(協和電影公司、ゴールデン・ハーベストとの共同出資)を設立し、製作・監督・脚本・主演の四役を担った。この3作によって、リーは香港で不動のトップスターの地位を築き、ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となった。
1972年秋から、リーの2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタートする。しかしハリウッドのワーナー・ブラザースとコンコルド・プロダクションとの合作映画『燃えよドラゴン』の企画が持ち上がり、『死亡遊戯』の製作は中断される。
1973年1月から、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』の撮影が始まる。かつて『燃えよ!カンフー』の主演が叶わなかったリーの意気込みは並々ならぬものがあり、エキストラへの武術指導に始まり、脚本や撮影にも詳細な意見を出した。
死去
1973年7月20日、リーは『死亡遊戯』で共演予定の女優、ベティ・ティン・ペイ(丁珮) の香港の自宅で頭痛を訴え、鎮痛剤(アスピリンを含むEquagesic)を飲んでベッドに横になった。しかし、そのまま昏睡状態に陥ったため、ティン・ペイはレイモンド・チョウを呼びそのままクィーン・エリザベス病院へ搬送されたが、死亡が確認された。32歳没。
公式な死因は脳浮腫である。司法解剖の結果、微量の大麻が検出された。検死報告によると、リーの脳は1,400gから1,575g(13%の増加)まで膨らんでおり、頭蓋内圧の亢進により脳幹が圧迫されて死に至ったと考えられている。
葬儀は香港とシアトルで行われた。香港では数万人のファンが葬儀に参列し、シアトルの葬儀にはリーの弟子だったジェームズ・コバーンやスティーブ・マックイーンも参列した[注 9]。遺体はシアトルのダウンタウン近くのレイクビュー墓地に埋葬された。
死後
リーの死後、彼が待望していた主演作『燃えよドラゴン』がアメリカを皮切りに世界各地で公開され、ヒットした。しかし、地元香港では、前作『ドラゴンへの道』の興行収入を大きく下回った[注 10]。
『燃えよドラゴン』でアクションスターとして世界中で名声を獲得した時、すでにリーは亡くなっていた。死後、『ドラゴン危機一発』などの過去の映画が世界中に配給された。
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米国・ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム、リーのスター
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香港・星光大道、リーのスター
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星光大道のブルース・リーの銅像
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香港文化博物館の彫像
人物
| ブルース・リー | |
|---|---|
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燃えよドラゴンより
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| 各種表記 | |
| 繁体字: | 李 小龍 |
| 簡体字: | 李 小龙 |
| 拼音: | Lǐ Xiǎolóng(北京語) Lei5 Siu2 Lung4(広東語) |
| 和名表記: | り しょうりゅう |
| 発音転記: | リー・シァオロン |
| 英語名: | Bruce Lee |
| 各種表記(本名) | |
| 繁体字: | 李 振藩 |
| 簡体字: | 李 振藩 |
| 拼音: | Lǐ Zhènfān(北京語) Lei5 Zan3 Faan4(広東語) |
| 和名表記: | り しんはん |
| 発音転記: | リー・ジェンファン |
| 英語名: | Lee Jun-fan |
怪鳥音
格闘の際に発する「アチョー」という独特の叫び声は「怪鳥音」[12](かいちょうおん(けちょうおん)[注 11]、元の発音はグヮイニャオイン[14])と呼ばれる。1970年代前半の香港映画界はリーの母国語でもある香港現地語の広東語ではなく北京語で製作される映画が主流であり、リーの成人後の映画は全て北京語声優によりセリフが北京語に吹き替えられたため、『燃えよドラゴン』ワーナー国際英語版を除いてリー本人の声ではない(リーの死後1980年代に作られた広東語版は別人によるさらなる吹き替え音声である)が、怪鳥音だけはリー自身の声である。ただし北米版『ドラゴンへの道』と国際版『死亡遊戯』だけは、怪鳥音の掛け声も別人の吹き替えになっている。
武道家
リーが正式に門下に入ったのは詠春拳のみだが、北派の中国武術も数多く研究していた。『グリーン・ホーネット』のオーディション映像などでさまざまな型を演ずるのを見ることができる。なお、オーディションで演舞した虎の型、龍の型などは即興で行ったもので、中国武術に存在する形意拳の物とは全く違う。また、渡米してから数か月間 剛柔流の空手道場に通って基本の技を習ったという証言もある。オーディション映像で見せる目突きや金的蹴りはその時に習ったものだと思われる。シアトルで柔道着を着て黒帯を締めている写真も残されているが、段位は持っていない。
アメリカ合衆国の空手家であるジョー・ルイスは1967年にリーと出会い、截拳道で導入されていたボクシンググローブとヘッドギアを身に纏ってのスパーリングや、格闘哲学を参考にした[15]。それまでアメリカ国内の空手の試合は、対戦相手の体に直接打撃せずに寸止めでポイントを争う試合が一般的だった。1970年1月17日に開催された空手大会では、スペシャルマッチとしてロサンゼルスで初めて、ボクシンググローブを着用して直接打撃する試合が行われた[16]。ルイスは対戦相手のGreg Bainesに2ラウンドKO勝ちし[16]、1974年にはアメリカのキックボクシング団体であるPKAを設立している。
以上の歴史的事実から、ジョー・ルイスはブルース・リーこそアメリカにおけるフルコンタクト空手、つまりアメリカのキックボクシングの父であり、上記の試合でリーから学んだダブルフックのコンビネーション、ポジショニングの確立、速やかに距離を詰めることの重要性、爆発力を伴った最初の一撃といったリーが常に強調していた原則を念頭に置いた試合運びを心がけたことを、自身の教則ビデオ「What Bruce Lee Taught Me」の冒頭、上記のGreg Bainesとの試合動画のナレーションにて告白している。1971年から1988年の間、アメリカでPKAやWKAといったフルコンタクト空手の独立ランキングを管轄していたSTAR(Standardized Tournaments and Ratings)システム (en) は、年間最優秀選手並びに貢献した関係者を各年毎に表彰していたが、Greg Baines戦におけるジョー・ルイスのKO勝利に貢献したとして、1971年のTRAINER-COACH OF THE YEARにブルース・リーを選出している[17][要検証] 。
トレーニング
ブルース・リーの1963年から1971年にかけてのトレーニング記録表で確認できるが、彼がトレーニング方法に最適なエクササイズと戦闘テクニックをプログラムで習得するにつれて、トレーニング方法が頻繁に進化し続けたことがわかる。ブルース・リーは暇さえあればトレーニングをしていて、自分の可能性を最大限に引き出す方法を常に探していた。
1963年の訓練方法は主に伝統的な方法で行われていた。彼のトレーニング記録から当時のトレーニングは、詠春拳の3つの套路(小念頭、尋橋、標指)に由来するパンチとキックのエクササイズで構成されていた。1965年からは持久力とスタミナを高めるために心肺系ルーチンを開始していた。彼の有酸素運動は、サイクリング、ランニング、縄跳びで構成されていた。ブルースは一日の始まりに週に3回4マイル(6km)を走っていた。彼はしばしばこれらのセッションをファルトレクタイプのトレーニングとして実行し、通常のペースに戻る前に短時間のペースアップでスピードを上げて走り込んでいた。残りの3日間は、30分間の縄跳びを取り入れていた。バランス感覚をさらに伸ばすために、片足を上げて縄跳びをすることもあった。彼はそれが足を軽く保つのに役立つだけでなく、彼の健康にも役立つと信じていた。またこれらの日には、彼はさらにフィットネス向上のためにエアロバイクでさらに45分間のサイクリングを追加していた。
時折、トレーニングによる能力の停滞を避けるために、サーキットトレーニングを行っていた。彼は8〜12種目でメニューを組み、一種目ごと30〜60秒間で休むことなく全種目行われた。
ブルース・リーは俳優として映画ビジネスの世界で活躍し、多忙をきわめるなかにあっても武道家として修行を怠ることはなかった。海外でのロケーションなどでしばらく自宅を離れるときは、専用の運動靴を持参し、ロケ先でトレーニングを行っていた。暇さえあればボールを繰り返し握る握力向上の鍛錬やパンチをできるだけ早く打ち続けるトレーニングを行っていた。
モハメド・アリのビデオをすべて所有し、トレーニングに利用していた。リー自身はサウスポースタイルを基本としていたため、オーソドックススタイルのアリのビデオを鏡に映して模倣し、その動きが本来の自分の動きになるまでトレーニングをした。
筋力トレーニングとして、アイソメトリックトレーニング(アイソメトリクス)を積極的に取り入れていた。
『燃えよドラゴン』の監督ロバート・クローズは撮影当時を振り返り、著書である『ブルース・リーの燃えよドラゴン完全ガイド』でブルース・リーを「それは今までに見たことのない物凄い体付きをしていた」と表現している、また、『燃えよドラゴン』製作に携わった映画プロデューサーのポール・ヘラーは、ロバートの著書でブルース・リーの体を「彼の体はまるでマホガニーの木のようだった」とも書いている。また、撮影での武術指導をするブルース・リーをサム・ゴークと称賛していた。意味は"速くパワーがある"という意味だという。
『燃えよドラゴン』のセットにいる間、ブルース・リーは戦いのシーケンスをリハーサルしながらシャツを脱いで歩き回っていた。ロバート・クルーズの妻は彼の体格を賞賛し、彼の筋肉を触っていいか聞いてみた。彼は彼女に屈曲した上腕二頭筋を触ってみてと言った。彼女はそれに触れて、彼の筋肉が「暖かい大理石のように」感じたと周りに話していた。
その他
ダンスの才能もあり、チャチャが最も得意だった。香港のダンスコンテストで優勝したこともある。
ワシントン大学在学中に哲学を専攻し、東洋思想にとどまらず、西洋哲学にも関心を寄せていた。もともと読書家でもあり、その個人蔵書は数千冊に及ぶ。哲学や心理学をはじめ、武術、ボクシング、フェンシング、自己啓発など、幅広い分野の書籍を読み、それらを通じて得た知識や思想を自らの武術観や人生観に取り入れていった。こうした読書と思索の積み重ねは、截拳道(ジークンドー)の思想にも反映されている[18][19]。
交友
友人・後輩
- ユニコーン・チャン - リーの亡くなった14年後の1987年に交通事故にて死去した際、香港では「あの世で寂しくなった李小龍が、親友の小麒麟を連れて行った」と噂された。[要出典]
- サモ・ハン・キンポー - 1970年から71年頃、アメリカから一時帰国していたリーが映画スタジオを訪れた際、当時武術指導をしていたサモ・ハンと初めて顔を合わせた。アメリカでの活躍ぶりを知っていたため、サモ・ハンは挨拶がてら「君は本当に速いらしいね」と声をかけたところ、リーは「試してみるかい?」と返答、急遽手合わせをすることになった。サモ・ハンが攻撃を仕掛けようと足を上げた瞬間、リーは目にも止まらぬ速さのサイドキックを一瞬で顔ぎりぎりのところで止めて見せ、あまりにも強烈な挨拶に腰が引けたという[20][21]。
- ジャッキー・チェン - 『ドラゴン怒りの鉄拳』で門下生役とスタントマン、『燃えよドラゴン』では擬斗の相手で出演。
- チャック・ノリス - 1967年の全米空手大会優勝時に出会い、共にトレーニングをする友人。『ドラゴンへの道』の敵役で共演。
- ロマン・ポランスキー - 格闘技の師匠で自宅やスイスのグシュタードにある別荘に招くなど交流があった。
縁のある日本人
- 西本正 - 『ドラゴンへの道』『死亡遊戯』の撮影監督で、リーとは一緒にすき焼きを食べに行くなど交友があった[22]。
- 勝新太郎 - リーは『座頭市』のファンで[23]、自身が盲目の中国武術家を演じる写真も残っている[24]。
- 出村文男 - 1960年代後半、UCLAで空手と古武道の演技をした時に知り合い、足技中心のテコンドーを習っていたリーが、手技の「突き」を習いたいと訪ねて来た[25]。この際、ヌンチャクの使い方を指導した[26][27]。
- 千葉真一 - リーは千葉真一のアクションに関心を示し、共演を望んでいたとされる。千葉によれば、香港から所属事務所に共演についての問い合わせがあったという[28][29]。
- 倉田保昭 - 交友関係があった[30]。『ドラゴン怒りの鉄拳』撮影時に倉田がリーにプレゼントしたヌンチャクが同作で使用されたことから、ヌンチャクブームが起こった[31][32]。倉田は「ヌンチャクといえばブルース・リーのものになり、彼のマネをするのはタブーなので、わたしがヌンチャクを使えなくなってしまった。プレゼントしたのはわたしなのに…」と発言している[31]。倉田は千葉真一と共演していたので「千葉さんはアップに相当気を使われるし、そのアップのときの演技は素晴らしいものだった。一方のブルース・リーは私に『アクション俳優とは頭から指先までパワーが満ち満ちているのが一番だ』と語った[33]」と、二人の演技の違いを評している。
門下生
直弟子
- ターキー木村 - 日系二世の武道家。シアトル時代の直弟子で親友。「振藩國術館」設立に関わり、シアトルの道場の責任者でもあった。
- ジェームズ・リー - アメリカ武道界のパイオニア。オークランドの「振藩國術館」共同設立者。リー不在時には道場を任された。
- テッド・ウォン - ロサンゼルス〜香港時代の直弟子でスパーリングパートナー。リー他界後は截拳道の普及に努めた。
- ダン・イノサント - フィリピン系アメリカ人の武術家。ロサンゼルス時代の直弟子。截拳道及びその前身である振藩功夫の継承者。イノサントアカデミー代表。映画『死亡遊戯』に出演。
- リチャード・バステロ - ハワイ出身のアメリカ人武術家。リーの直弟子で截拳道を学び、ダン・イノサントと共にフィリピン武術(エスクリマ、アルニス、カリ)を研究、復興に尽力した。IMBアカデミー(カリフォルニア州)創設者。
- ジョー・ルイス - アメリカの空手家。リーの下で截拳道を学び、格闘哲学を参考にした。PKA設立者。
- カリーム・アブドゥル=ジャバー - NBAの元プロバスケットボール選手。リーの下で截拳道を学び、映画『死亡遊戯』に出演。
- ジェームズ・コバーン - 親交が深く2人で脚本を手掛けた『サイレントフルート』という映画で共演する予定だった。インドでロケ・ハンまで行われたが、リーの死で中止となった[注 12]。
- スティーブ・マックイーン - リーの弟子であり親友、リーの下積み時代を支えた一人。チャック・ノリスにも師事している。
主な出演作品
少年期
香港で少年期、青年期に出演した作品。いくつかは香港、アメリカなどでVCD、DVDがリリースされている。日本では2003年に"BRUCE LEE ULTIMATE COLLECTION -李小龍的追悼秘蔵収集- ブルース・リー アルティメット・コレクション"のタイトルで販売された。
- 『金門女』(1941年)小李海泉名義
- 『萬紫千紅』(1948年) 新李海泉名義
- 『富貴浮雲』(1948年)李鑫/新李海泉名義
- 『夢裡西施』(1949年)小李海泉名義
- 『樊梨花』(1949年)新李海泉名義
- 『花開蝶滿枝』(1950年)李敏/小李海泉名義
- 『細路祥』(1950年)日本題名『ドラゴン スモール・ブラザー』李小龍名義
- 『凌霄孤雁』(1950年)
- 『人之初』(1951年)
- 『苦海明燈』(1953年)日本題名『ドラゴン スパーク・オブ・ホープ』
- 『慈母涙』(1953年)
- 『父之過』(1953年)
- 『千萬人家』(1953年)日本題名『ドラゴン ミリアッド・ファミリー』
- 『危樓春曉』(1953年)
- 『愛(上集)』(1954年)
- 『愛(下集)』(1954年)
- 『孤星血涙』(1955年)日本題名『ドラゴン オーファン』
- 『守得雲開見月明』(1955年)
- 『孤兒行』(1955年)
- 『兒女債』(1955年)
- 『詐癲納福』(1956年)
- 『早知當初我唔嫁』(1956年)
- 『雷雨』(1957年)
- 『甜姐兒』(1957年)
- 『人海孤鴻』(1958年)
渡米後
- TVシリーズ
- 『グリーン・ホーネット』(1966年 - 1967年、原題:The Green Hornet)全26話に出演。助手「カトー」を演じる。
- 毎週金曜日の午後7時半から8時に米ABC系で放映。日本では1967年にテレビ放映。死後、4話ずつ繋ぎ合わせ『ブルース・リーのグリーン・ホーネット』(1973年、原題:The Green Hornet / ビデオ邦題:ブルース・リーINグリーン・ホーネット)、および『ブルース・リー 電光石火』(1976年、原題:Fury Of The Dragon / ビデオ邦題:ブルース・リーINグリーン・ホーネット2 電光石火)として劇場版が製作された。
- 『バットマン』(1966年 - 1967年、原題:Batman)3話にカトー役でゲスト出演。
- 『鬼警部アイアンサイド』(1967年、原題:Ironside)空手道場範師レオン・スー役で出演。
- 『Blondie』(1968年)カラテ道場範師Mr. Yoto役で出演。
- 『略奪された百人の花嫁』(1968年、原題:Here Come The Brides)
- "Marriage, Chinese Style"の回に中国人花婿役で出演。
- 『復讐の鬼探偵ロングストリート』(1970年 - 1971年、原題:Longstreet)
- "The Way of The Intercepting Fist"、"Spell Legacy Like Death"、"Wednesday's Child"、"I See, Said The Blind Man"の4エピソードに出演。
- 映画
香港帰国後
- 映画
- 『ドラゴン危機一発』(1971年、原題:唐山大兄 THE BIG BOSS)- 鄭潮安(チェン・チャオワン)※1971年10月31日 - 11月22日 319万7416香港ドル、香港では『サウンド・オブ・ミュージック』や『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』を破る最高記録。日本では1974年の洋画部門の配給収入第4位、6億円
- 『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年、原題:精武門 FIST OF FURY)- 陳真(チェン・ジェン)※日本では1974年洋画部門の配給収入第4位(『ドラゴン危機一発』と同額)、6億円
- 『ドラゴンへの道』(1972年、原題:猛龍過江 THE WAY OF THE DRAGON)- 唐龍(タン・ロン)※日本では1975年の洋画部門の配給収入第6位、7億7200万円。
- 『燃えよドラゴン』(1973年、原題:ENTER THE DRAGON 龍争虎闘)- 李振強(リー)※日本では1974年洋画部門の配給収入第2位、16億4200万円
- 『死亡遊戯』(1978年、原題:死亡遊戯 GAME OF DEATH)- 呂比利(ビリー・ロー)※この映画を「リー主演映画」とすることには一部で異論がある。日本では1978年の洋画部門の配給収入第5位、14億5000万円。
短編フィルム
リーの死後、未公開映像として公開されたもの。
- 「チャーリー・チャンの息子」スクリーンテスト(1966年)
- 「グリーン・ホーネット」スクリーンテストフィルム1&2(1966年)
- 「グリーン・ホーネット」衣装テストフィルム(1966年)
- 「U.S. Gung Fu Television Demo」(1966年)
- テレビ番組「Milton Berle Show」に出演した際の武術デモンストレーション。
- 「Bruce Lee : The Lost Interview」(1971年)
- カナダの作家ピエール・バートンが香港TVBスタジオでインタビューしたフィルム。現存する唯一のインタビュー映像。
- 「アーナ・カプリフィルム」
- 『燃えよドラゴン』で競演した女優のアーナ・カプリが個人撮影した8ミリフィルム。イベントで公開された。
関連映画・ドラマ
リーが間接的に関係する映画、未発表フィルムを使った映画、ドキュメンタリー映画など。
- アクション指導
- 『サイレンサー/破壊部隊』(1968年、ディーン・マーティン主演)
- 『春の雨の中を』(1969年、アンソニー・クイン主演)
- 原案
- 『燃えよ!カンフー』(1973年、デビッド・キャラダイン主演)
- 『サイレントフルート』(1977年、デビッド・キャラダイン主演)
- 未発表フィルム使用
- 『死亡の塔』(1980年、タン・ロン主演)
- 『Bruce Lee in G.O.D 死亡的遊戯』(2000年、デヴィッド・リーがブルース役)
- ドキュメンタリー映画&TVドキュメンタリー
- 『ブルース・リーの生と死』(1973年)
- 『ブルース・リー 恐怖の鉄拳 死の香り』(1980年)
- 『ブルース・リー神話』(1984年)
- 『ブルース・リー/マーシャルアーツ・マスター』(別邦題:ブルース・リー ザ・レジェンド/新マーシャルアーツ・マスター、1990年)
- 『燃えよブルース・リー/不滅のドラゴン』(1992年)
- 『ブルース・リー伝説』(別邦題:ブルース・リー 最後の伝説、1993年)
- 『実録ブルース・リー/ドラゴンと呼ばれた男』(1993年)
- 『ブルース・リーよ永遠に』(1999年)
- 『受け継がれる魂 ブルース・リーの軌跡』(2001年)
- 『ブルース・リー チェンジ・ザ・ワールド』(2009年)
- 『アイ アム ブルース・リー』(2012年)
※その他、リーの映像を一部だけ使い「ブルース・リー出演」と銘打った映画は、『麒麟掌』(1973年、小麒麟(ユニコーン・チャン)主演。武術指導をしている姿を盗み撮りして無断使用)など数多い。
著作
- Chinese Gung-Fu: The Philosophical Art of Self Defense (ブルース・リーの処女作) – 1963
- 松宮康生訳『基本中国拳法』フォレスト出版、1998年
- Tao of Jeet Kune Do (死後出版) – 1973
- 風間 健、灰田匡江訳『秘伝截拳道への道』コンコルド東通 ベストブック社、1976年
- 奥田祐士訳『截拳道(ジークンドー)への道』キネマ旬報社、1997年
- Bruce Lee's Fighting Method (死後出版) – 1978
- M・ウエハラ共著、松宮康生訳『ブルース・リー格闘術〈Vol.1〉護身術編』フォレスト出版、1997年
- M・ウエハラ共著、松宮康生訳『ブルース・リー格闘術〈Vol.2〉基本トレーニング編』フォレスト出版 、1997年
- M・ウエハラ共著、松宮康生訳『ブルース・リー格闘術〈vol.3〉実戦編』フォレスト出版、1997年
- M・ウエハラ共著、松宮康生訳『ブルース・リー格闘術〈vol.4〉上級テクニック編』フォレスト出版、1997年
伝記映画・ドラマ
- 伝記映画
- 『ブルース・リー物語』(1976年、ホー・チョンドー主演)
- 『ドラゴン/ブルース・リー物語』(1993年、ジェイソン・スコット・リー主演)
- 『李小龍 マイブラザー』(2010年、アーリフ・リー主演)
- 『バース・オブ・ザ・ドラゴン』(2016年、フィリップ・ン主演)
- 伝記テレビドラマ
- 全50話の伝記ドラマ。中国にて平均視聴率・最高視聴率の新記録を打ち立てた。日本ではBS日テレで放送。
パロディ・オマージュ映画、リーに影響された映画など
詳細はブルース・リーが主演・出演している映画・ドラマのそれぞれの項を参照。
- 『ドラゴン水滸伝』 - 1975年。『封神演義』を題材としたアニメ映画。リーを思わせる風貌の楊戩が登場する。
- 『ブルース・リーを探せ!』 - 1976年。リーの死の謎を、ブルース・リィ演じる親友の武術家が探るというストーリー。
- 『ケンタッキー・フライド・ムービー』 - 1977年。オムニバス・ギャグ映画で、そのスケッチの一つに、『燃えよドラゴン』のパロディ『燃えよ鉄拳(A Fistful of Yen)』がある。
- 『燃えよデブゴン』 - 1978年。サモ・ハン・キンポーが、リーへのオマージュを込めて制作した映画。
- 『秘録ブルース・リー物語』 - 1978年。タイトル以外はほぼ無関係な映画。
- 『複製(クローン)人間ブルース・リー/怒りのスリー・ドラゴン』 - 1982年。英国諜報部が死んだリーの細胞から3人のクローン人間を作り出したという設定の作品。
- 『ラスト・ドラゴン』 - 1985年。リーに憧れる黒人青年の物語。
- 『シンデレラ・ボーイ』 - 1985年。亡くなったリーの霊が主人公を鍛える青春アクション映画。
- 『コイサンマン、キョンシーアフリカへ行く』 - 1991年。ニカウさんがブルース・リーの霊を憑依させて戦う。
- 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』 - 2019年。『サイレンサー/破壊部隊』でシャロン・テートのアクション指導をしていた実話から、リーが撮影現場で副主人公・クリフに喧嘩を仕掛け、投げ飛ばされる架空のエピソードが作られた。
- 『ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進! THE MOVIE』 - 2023年。ブルース・リー亡き後に“第2のブルース・リー”を演じたソックリさんたちの奮闘と、ブルースプロイテーション・ムービーの歴史を描いたドキュメンタリー映画。
ソックリさん
リーの死後、香港や台湾では「ドラゴン映画」「リー映画」が数多く製作され、多くのソックリさんが登場した。いずれもヒット作品とはならなかったが、一部には「ソックリさん映画」のコレクターもいる。
- ブルース・リィ(ホー・チョンドー) - 台湾の武道家・俳優。日本のTVドラマ『Gメン'75』にも出演した。
- ドラゴン・リー - 韓国出身の俳優。
- ブルース・リ - 香港の俳優。
- タン・ロン - 韓国出身の俳優。『死亡の塔』に主演。
- 石天龍(シー・テンロン、ドラゴン・セキ)[34][35] - 中国の俳優。『フィスト・オブ・フューリー 復活!ドラゴン怒りの鉄拳』『復活 ドラゴン危機一発』『復活 死亡遊戯』に主演。
- 陳国坤(チャン・クォックァン) - 香港の俳優。周星馳(チャウ・シンチー)によって見出され、『少林サッカー』『カンフーハッスル』に出演。連続テレビドラマ『ブルース・リー伝説』や映画『イップ・マン 継承』では、リーを演じる。
- すわ親治 - 日本のコメディアン。バラエティー番組『8時だョ!全員集合』でリーの物真似をしていた。
伝記
エピソード
- 日本での劇場公開時、『ドラゴン危機一発』、『ドラゴン怒りの鉄拳』、『ドラゴンへの道』の三作には、日本側の配給元がマイク・レメディオスが歌う日本オリジナルの主題歌やBGMを挿入していた。現在、発売されているDVDには、当時の主題歌やBGMは使われていない。長年レメディオスは「謎の歌手」だったが、日本のファンがポルトガル系香港人だと突き止めた[36]。その後、ファンが主導して主題歌の再収録[37] や、日本にノラ・ミャオとともに招いてトークイベントなどが行われ[36]、2007年10月に新たに収録した「SONG OF DRAGON Mike Remedios The Final」(Chife Delight Music)というCDが発売された。
- 遺品である免許証、サングラス、契約書が『開運!なんでも鑑定団』(2004年6月22日放送)に登場。高額な鑑定結果となった。また、2025年2月25日放送分にも同番組に遺品3点が登場し、これらも高額な鑑定結果となった。
- 広州市に本店を有し、中国全土に500以上の店舗を構える大手レストランチェーン『真功夫』(1990年創業)は、2004年以来、店内外に格闘家のロゴ(その着衣が『死亡遊戯』におけるブルース・リーの衣装を想起させるものもある)を用いている。真功夫は、これをブルース・リーとは言っておらず、遺族などにも許諾を取っていなかった。2019年12月、娘のシャンノン・リーは、肖像権を侵害しているものとし、真功夫に対してキャラクターの使用差し止め、賠償金2.1億元、ブルース・リーとは関係がないことを示す広告を90日間にわたって出す事を求めた[38]。2022年8月25日、上海市の第二中級人民裁判所で審議が開始され[39]、国家知的財産局は同社が保有する20以上の関連商標に対して「無効宣言」の裁定を下した。真功夫は判決を不服として北京市高级人民法院に控訴したが、2024年10月、北京高等人民法院は控訴を棄却、真功夫側の敗訴および商標無効の判決が確定した[40]。
記念施設
- 父の故郷である広東省順徳市(現・仏山市順徳区)には2008年までに複数の記念館が開設された[41]。一方、香港では1999年頃と2005年に記念館の構想が出されたがいずれも頓挫している[41]。2009年にも香港の2階建ての旧宅を記念館にする計画が出たが[41]、所有者が同意せず、2011年に計画は頓挫したと報じられた[42]。
- ファンクラブ「李小龍会」によって2000年に香港で展示販売施設を開設した[43]。中断後、2019年に香港の別のビルに移転したが、資金難となり2025年7月1日の営業が最終日となった[43]。
- ボスニア・ヘルツェゴビナの都市モスタルにブルース・リー像が立てられている。
受賞歴
関連項目
脚注
注釈
- ↑ 広東語は香港商務印書館1989年版「普通話粤音商務新詞典」、李珍華・周長楫編「漢字古今音表」修訂本(北京中華書局1999年)、華南師範大学中文系編「広州音字典」(香港三聯書店1985年版)などにもとづく。
- ↑ グリーン・ホーネットで共演したジン・ラベールは"ブルースの身長は5フィート4インチ(163㎝弱)、体重140ポンド(63.5kg)"と語っている。
- ↑ 異父弟、何福の孫にマカオのカジノ王スタンレー・ホーがいる。
- ↑ 芸名の李小龍は映画『細路祥』の原作者である漫画家・袁歩雲の発案で、リーの生まれ年(辰年)と時刻(辰の刻)にちなんで名付けられた[2]。
- ↑ 映画『ドラゴン怒りの鉄拳』は精武体育会についての伝説(史実ではない)がテーマである。
- ↑ このマスクは、後に映画『キル・ビル』で「カトーマスク」と呼ばれる。
- ↑ カトー役のイメージのため、リーを日本人だと誤解しているアメリカ人も多かった。
- ↑ 主人公の混血児ケインを演じたのはデビッド・キャラダイン。
- ↑ この葬儀の様子は『死亡遊戯』の中で実際に使われている。
- ↑ この現象について、映画関係者や批評家は、「香港や中国の観客は、リーのような小柄で細身の田舎者が、日本人や屈強な白人を痛快に叩きのめすような内容の作風を望んでいたから」などと分析している(『ブルース・リーの燃えよドラゴン完全ガイド』ロバート・クローズ著(白夜書房))。
- ↑ "怪鳥"は古来"けちょう(けてう)"と発音されていた。"かいちょう"とも発音される[13]。
- ↑ その後、1977年にデビッド・キャラダイン主演で映画化。
出典
- ↑ “ブルース・リー”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2022年10月28日閲覧。
- 1 2 3 “ブルース・リーの生涯 香港〜少年時代”. IUMA日本振藩國術館. 中村頼永. 2026年9月4日閲覧。
- 1 2 3 “ジークンドーの歴史”. IUMA日本振藩國術館. 中村頼永. 2026年9月4日閲覧。
- ↑ “ウィリアム・チョン(張卓慶)”. TWC JAPAN 伝統 詠春拳 日本支部 尼崎. 2026年9月4日閲覧。
- ↑ “イップ・マン(葉問)”. TWC JAPAN 伝統 詠春拳 日本支部 尼崎. 2026年9月4日閲覧。
- 1 2 3 “History ジークンドーの歴史”. JEET KUNE DO ASIA / JAPAN. ヒロ渡邉 (2020年4月7日). 2026年9月4日閲覧。
- ↑ Chen, Edwin (2016年1月5日). “Bruce Lee Was an Anchor Baby” (英語). AsAmNews. 2020年11月1日閲覧.
- ↑ “Wing Chun Kung Fu’s Master WONG SHUN LEUNG – “The Early Years””. Mindful Wing Chun (2023年5月30日). 2026年8月4日閲覧。
- 1 2 “ブルース・リーの生涯 アメリカ〜青年時代”. IUMA日本振藩國術館. 中村頼永. 2026年9月4日閲覧。
- 1 2 Ruby de Luna (2018年3月16日). “When Bruce Lee was an unknown, everyday guy” (英語). KUOW. 2021年10月26日閲覧。
- ↑ “Bruce Lee” (英語). Bruce Lee. 2026年8月31日閲覧。
- ↑ 「アチョー! 怪鳥音に世界が沸いた ブルース・リー没後50年」『朝日新聞』朝日新聞社、2023年7月17日。
- ↑ 「怪鳥」『デジタル大辞泉』。コトバンクより2026年9月4日閲覧。
- ↑ とっけつ [@yoc_tkz]「ブルース・リーの怪鳥音の読みは「かいちょうおん」ではなく「け(い)ちょうおん」。気になって調べたら、オリジナル発音は「グヮイニャオイン」。」2023年12月3日。X(旧Twitter)より2026年9月4日閲覧。
- ↑ Black Belt 1992年 5月号 24ページ Jeet Kune Do's Kickboxing Phase by Jerry Beasley, Ed.D.
- 1 2 Black Belt 1992年 5月号 27ページ The Birth of Competition JKD by Jerry Beasley, Ed.D.
- ↑ John Corcoran著 THE MARTIAL ARTS SOURCEBOOK 40ページ HarperPerennial A Division of HarperCollins Publishers 1994年
- ↑ “Bruce Lee: “The Way of the Intercepting Fist” | UCLA Library” (英語). www.library.ucla.edu. 2026年8月31日閲覧。
- ↑ “#110 Bruce Lee Library - Commentaries on Living” (英語). Bruce Lee (2018年8月7日). 2026年8月31日閲覧。
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- ↑ 「Bruce Lee's Behind The Scenes Fight Footage With Sammo Hung Will Blow Your Mind!」(英語)『YouTube』、Beerdy - Bruce Lee Central、2025年11月4日。
- ↑ 『ブルース・リーに愛を込めて~香港功夫映画よ、永遠に~』三栄、2023年、p.25
- ↑ 『燃えよ、ブルース・リー』宝島社、2023年、p.24
- ↑ 映画「ブルース・リーの生と死」1973年 ゴールデン・ハーベスト製作
- ↑ “出村文男さん/武道家、映画スタント、俳優”. Lighthouse ロサンゼルス. Leverages Lighthouse Inc. (2010年1月16日). 2026年9月4日閲覧。
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- ↑ ““和製ドラゴン”倉田保昭が、生誕70周年を迎えた親友ブルース・リーについて熱い思いを語る!!:第23回東京国際映画祭|シネマトゥデイ”. シネマトゥデイ (2010年10月29日). 2025年5月29日閲覧。
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- 1 2 3 「これで何回目?ブルース・リー記念館計画「今度こそは」」『スポニチ』2009年10月26日。2025年7月1日閲覧。
- ↑ 「ブルース・リー記念館頓挫 旧宅所有者が同意せず」『スポニチ』2011年6月27日。2025年7月1日閲覧。
- 1 2 “ブルース・リーの施設閉鎖 香港ファンクラブ運営、資金難で”. 47news. 2025年7月1日閲覧。
参考文献
- 『ブルース・リー 永遠のドラゴン』日野康一著(1974年12月、芳賀書店) ISBN 4826100264
- 『闘魂ブルース・リー』日野康一著(1975年3月、芳賀書店) ISBN 4826105029
- 『ブルース・リー 不滅のドラゴン』スクリーン著(1985年12月、近代映画社) ISBN 4764812959
- 『ブルース・リー・ストーリー』リンダ・リー著(1993年10月、キネマ旬報社) ISBN 487376064X
- 『ブルース・リー・メモリアル』リンダ・リー他著(1994年7月、キネマ旬報社) ISBN 4873760925
- 『映画秘宝 Vol.3 ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進!』(1996年9月21日、洋泉社) ISBN 4-89691-231-4
- 『ブルース・リーの燃えよドラゴン完全ガイド』ロバート・クローズ著(1996年4月25日、白夜書房) ISBN 4-89367-497-8
- 『截拳道への道』ブルース・リー著(1997年5月15日、キネマ旬報社)
- 『ブルース・リー・リターンズ 超人伝説』(1997年8月8日、キネマ旬報臨時増刊号)
- 『伝説のブルース・リー』BLACK BELT誌編(1998年4月、フォレスト出版) ISBN 4894510502
- 『ブルース・リー・クロニクル』松宮康生著(1998年8月、フォレスト出版) ISBN 4894510561
- 『ブルース・リー ザ・ファイター』M・ウエハラ著(1998年11月9日、フォレスト出版) ISBN 4894510634
- 『李小龍大全 / The Bruce Lee Library』(1998年12月18日、ソニーマガジンズ)
ISBN 4789713342
- vol.1 ドラゴンかく語りき[インタヴュー 1958〜1973] ジョン・リトル編
- vol.2 グンフーへの道[中国武術の研究] ブルース・リー著 / ジョン・リトル編
- vol.3 截拳道[ブルース・リーの格闘哲学] ブルース・リー著 / ジョン・リトル編
- 『BRUCE LEE THE GREATEST』松宮康生著(1999年8月30日、フォレスト出版) ISBN 4894510847
- 『ブルース・リー最後の真実』松宮康生著(2008年9月2日、ゴマブックス) ISBN 978-4-7771-1097-1
外部リンク
- 公式サイト
- 作品データベース
- 関連サイト
- 嘉禾娛樂事業有限公司/Golden Harvest - ウェイバックマシン(2000年6月19日アーカイブ分)
ブルースリー
ブルース・リー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 06:10 UTC 版)
ブルース・リーが死亡した際、様々な噂が流れた。 「司法解剖の際に大量のマリファナが検出された」や「筋肉を引き締めるために200ボルトの電流を体に流したための感電死」「マフィア説」など。 実際には、背中の古傷のために長年使っていた痛み止めとその晩に使用した鎮静剤の副作用と言われている。
※この「ブルース・リー」の解説は、「噂」の解説の一部です。
「ブルース・リー」を含む「噂」の記事については、「噂」の概要を参照ください。
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