韓民党の中央政界進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 20:11 UTC 版)
戦後、呂運亨ら朝鮮国内にいた左派系・中道系の独立運動家たちによって結成されていた朝鮮建国準備委員会(建準)に否定的な立場を採っていた民族主義・保守系勢力が中心となり韓民党は結党されている。結党に際しては金性洙の湖南財閥など財界の支援があり、建準への対抗から重慶に亡命していた大韓民国臨時政府(臨政)の支持を打ち出した。さらに米軍政府にも多数の党員を送り込み、米軍政内部で大きな影響力をもった。 しかし、臨政派は韓民党やその支持母体に親日派が多いことから、やがて両者は対立する。国連による朝鮮半島の信託統治が提案されると両者は共に反対の姿勢を示すが、韓民党は他方では米軍政と協力し、臨政派による過激な反対運動を非難した。さらに、臨政派が左派との合作(左右合作運動)を始めると、これに反発した。そのような状況の中で韓民党は孤立を深め、李承晩に接近していく。 その後、アメリカ軍政の仲介によって李承晩を支える役割を担った。10月韓民党は、アメリカから帰国直後の李承晩とともに政府準備組織「独立促成中央協議会」(独促)を発足させた。李承晩・韓民党連合は臨政・建準両派に対抗し、アメリカ軍政の力も借りて彼らを排除した。ほどなくして、韓民党は李承晩とともに解放直後のソウル政界で主導権を握るにまで至った。 1948年5月の制憲議会選挙では29議席を得たが、李承晩系の大韓独立促成国民会(独促)や無所属勢力が多数派を占め、韓民党は第3党にとどまった。
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