李氏朝鮮の宋明理学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 16:18 UTC 版)
李氏朝鮮の「宋明理学」(新儒教、性理学)は、忠、孝、仁、信といった儒教の思想や理想をさらに大きく助長した。 1392年以降の李氏朝鮮時代に、儒教は学究肌の両班階級や軍人の間で信念の基本的支柱とされた。朝鮮人は伝統的に宗教が自然で簡単だと気が付いていて、全ての宗教の共通部分を維持した。李王家の将軍達は仏教を迫害し、農村地帯で巫俗を維持したが、中国からの文化的移転を増やす為に中国の官僚的な統治モデルを非常に素早く文明社会に統合するのと同様に、統治と社会的規制に利用する為に儒教を促した。 朝鮮儒教の学校が建設され、その全ては外国の高等教育を受けた学者、大きな図書館、職人や芸術家の支援者、そして儒教の考えに基づくカリキュラムを持っていた。従って、世宗(在位1418年-1450年)の時代までには、他の宗教が寛容に扱われていた中で朝鮮の仏教の宗派が主な政治的中心地の外に追い遣られていたが、学問の全ての分野はこうした考え方に根ざしていた。13から15冊に及ぶ朝鮮儒教のカリキュラムとその注釈は広範囲に及んだ。 李氏朝鮮での儒教は16世紀に最盛期を迎えた。趙光祖の宋明理学を人々の間に普及させる努力は、朝鮮の二人の最も著名な儒学者の登場によって受け継がれた。李滉(1501年–1570年)と李珥(1536年–1584年)は、しばしば退渓(テゲ)と栗谷(ユルゴク)という号で呼ばれ、今日では、大韓民国の1千ウォン札と5千ウォン札にそれぞれ描かれたり、ソウル中心部の主要な大通りにその名が付けられて、記念されている。 李氏朝鮮が5世紀以上続いたので、朝鮮儒教の発展は大まかに次の通りに分けられる: 最初の1世紀: 政府による統治方法が儒教化される 第2世紀: 儒教哲学者の黄金時代 第3世紀: 長男によって相続される父系血統システムの発達 第4世紀: 儒教の神秘主義と両班階級に賢者の様な性質を求める事 第5世紀: 西洋との遭遇、清の崩壊と、日本による侵略に直面した時、儒教制度は崩壊した。儒教は地下に潜り、第6世紀に共和国で復活するのを待った。 17世紀後期になると、一部の儒家は宋明理学の形而上学的な性質に反発し始めた。朴趾源や丁若鏞らは、実学(실학)という運動によって、より実践的な社会変革を主張した。
※この「李氏朝鮮の宋明理学」の解説は、「朝鮮の儒教」の解説の一部です。
「李氏朝鮮の宋明理学」を含む「朝鮮の儒教」の記事については、「朝鮮の儒教」の概要を参照ください。
- 李氏朝鮮の宋明理学のページへのリンク