李氏朝鮮の妓生制とは? わかりやすく解説

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李氏朝鮮の妓生制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 14:03 UTC 版)

公娼」の記事における「李氏朝鮮の妓生制」の解説

1392年李氏朝鮮成立し1410年には妓生廃止論がおこるが、反対論なかには妓生制度廃止する官吏一般家庭女子犯すことになるとの危惧出された。山下英愛はこの妓生制度存廃論争をみても、「その性的役割うかがえる」とのべている。4代国王世宗のときにも妓生廃止論がおこるが、臣下妓生廃止する奉使官吏)が人妻奪取し犯罪に走ると反論し世宗はこれを認め奉使は妓をもって楽となす」として妓生制度公認した李氏朝鮮政府妓生庁設置し、またソウル平壌妓生学校設立し15歳20歳女子妓生育成行った李能和によれば李王朝歴代王君のなかでは9代国成宗10代国王燕山君が妓娼をこよなく愛したとりわけ燕山君暴君知られ後宮に妓娼をたくさん引き入れ王妃が邪魔な場合処刑した燕山君は、妓生を「泰平運んでくる」という意味で「運平(うんぴょん)」と改称させ、全国から美女であれば人妻であれ妾であれ強奪し、「運上」させるよう命じた全国から未婚処女を「青女」と呼んで選上させたり、各郡の8歳から12歳美少女集め、淫したとも記録され、『李朝実録』では「王色を漁す区別なし」と記している。化粧をしていなかったり、衣服汚れていた場合妓生叩きの罰を与え妊娠した妓生宮中から追放し、また妓生の夫を調べ上げて皆斬殺した。燕山君淫蕩相手となった女性いたったともいわれ、晩年には慶会付近に歳山を作り山上月宮をつくり、妓生3000余人囲われた。 官卑・奴婢としての妓生 高麗李朝時代身分制度では、支配階級両班、その下に中庶階級中人・吏属)、平民階級があり、その下に賤民階級としての奴婢七賤があった。林鍾国によれば七賤とは商人船夫獄卒・逓夫・僧侶白丁巫女ムーダン)のことをいい、これらは身分的奴隷ではなかったのに対して奴婢主人財産として隷属するものであったから、七賤には及ばない身分であった奴婢はさらに公賤私賤があり、私賤伝来婢、買婢、祖伝婢の三種があり、下人指した奴婢売買略奪対象であるだけでなく、借金担保であり、贈り物としても譲与された。従母法では、奴婢の子奴婢であり、したがってまた主人財産であり、自由に売買された。そのため、一度奴婢落ちたら、代々その身分から離脱できなかった。 朝鮮時代妓生多く官妓だったが、身分賤民・官卑であった朝鮮末期には妓生内人宮女)、官奴婢、吏族、駅卒、牢令(獄卒)、有罪逃亡者は「七般公賤」と呼ばれていた。 婢女は筒直伊(トンジキ)ともよばれ、下女のことをいい、林鍾国によれば朝鮮では婢女は「事実上家畜」であり、売却人身売買)、私刑はもちろん、婢女殺害しても罪には問われなかったとしている。さらには「韓末、水溝や川にはしばし流れ落ちないまま、ものに引っ掛かっている年ごろ娘たち遺棄死体があったといわれる局部に石や棒切れ差し込まれているのは、いうまでもなく主人玩具になった末に奥方殺され不幸な運命主人公であった」とも述べている。 両班多くの家での婢女奴僕との結婚許されており、大臣宅の婢女は「婢のなかの婢は大官婢」とも歌われたが結婚許されなかった。林鍾国は、婢女主人の性の玩具になった背景には、朝鮮奴隷制身分制度のほか、当時の「両班地位が高いほど夫人のいる内部屋へ行くことを体面にかかわるもの考えられたので、手近にいる婢女に性の吐け口を求めるしかなかった」ためとし、若くて美し官婢が妾になることも普通で、地方官吏のなかには平民の娘に罪を着せ官婢身分を落とさせて目的をとげることもあったとしている。 また、性的奉仕提供するものを房妓生・守廳妓生といったが、この奉仕享受できるのは監察使や暗行御使などの中央政府派遣特命官吏両班階級限られ違反すると罰せられた。 一牌・二牌・三牌・蝎甫カルボ朝鮮社会では妓生の他にも様々な娼婦遊女形態があった。李能和によると、遊女総称を蝎甫(カルボ)といい、中国語臭虫という。蝎甫には、妓女妓生)、殷勤者(ウングンジャ)、塔仰謀利(タバンモリ)、花娘遊女(ファランユニョ)、女社堂牌女寺堂牌(ヨサダンペ)、色酒家(セクチュガ)が含まれた。 妓生一牌イルベ)といわれ、妓生学校を卒業後宮中出たり、また自宅で客をとったり30歳頃には退妓し、結婚したり、遣り手や売酒業(実質的に売春業)を営んだ。 二牌イベ)は、殷勤者または隠勤子といい、隠密に売春業を営んだ女性をさし、一牌妓生崩れがなったという。 三牌は搭仰謀利といい、近代化以前京城散在していたが、のちに詩洞(シドン)に集められ仕事場を賞花室(サンファシル)と称して三牌妓生呼ばれるようになった花娘遊女成宗時代成立し、春夏は漁港収税の場所で、秋冬山寺僧坊売春行った僧侶手引きをして、女性を尼として僧坊に置き、売春業を営んでいた。僧侶仲介していた背景について川村湊は、李朝時代には儒教強くなり、仏教衰退し僧侶賤民地位落とされ寄進等も途絶えたためと指摘している。 女社堂牌大道芸人集団で、昼は広場マダン)で曲芸仮面劇トッポギ)、人形劇興行し、夜は売春行った男性は男寺堂(ナムサダン)といい、鶏姦相手をした。女性女寺堂(ヨサダン)といい、売春した。社堂(サダン集団本拠地安城青龍寺だった。川村湊女社堂牌日本傀儡子似ているといっている。 色酒家とは日本でいう飯盛女酌婦で、旅館などで売春行った。売酒と売春店舗をスルチビといい、近年でもバーキャバレーにスルチプ・アガシ(酒場女)、喫茶店チケット茶房)ではタバン・アガシ(茶房女)、現在でもサウナ房(バン)(ソープランド)や「頽廃理髮所」ともよばれる理髪店でミョンド・アガシ(カミソリ娘)という女性がいる。 朝鮮には春画はないとも一部でいわれてきたが、風俗画家申潤福の「伝薫園」や、金弘道の「四季春画帖」など性交や性戯の場面描いた春画多数あり、朝鮮春画登場人物はほぼすべて妓生と客であった川村湊はこうしたエロティックアートまなざしのなかで妓生だけが登場人物となった点を朝鮮春画特色としたうえで、その背景朝鮮儒教があり、「たとえ虚構絵画のなかであっても淫らなことを行い、性を剥き出しにし、露骨な痴態を示すのは妓生だけ」でなければならなかったと指摘している。

※この「李氏朝鮮の妓生制」の解説は、「公娼」の解説の一部です。
「李氏朝鮮の妓生制」を含む「公娼」の記事については、「公娼」の概要を参照ください。

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