李氏朝鮮の妓生制
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1392年に李氏朝鮮が成立し、1410年には妓生廃止論がおこるが、反対論のなかには妓生制度を廃止すると官吏が一般家庭の女子を犯すことになるとの危惧が出された。山下英愛はこの妓生制度存廃論争をみても、「その性的役割がうかがえる」とのべている。4代国王世宗のときにも妓生廃止論がおこるが、臣下が妓生を廃止すると奉使(官吏)が人妻を奪取し犯罪に走ると反論し、世宗はこれを認め「奉使は妓をもって楽となす」として妓生制度を公認した。李氏朝鮮政府は妓生庁を設置し、またソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳〜20歳の女子に妓生の育成を行った。 李能和によれば、李王朝の歴代王君のなかでは9代国王成宗と10代国王燕山君が妓娼をこよなく愛した。とりわけ燕山君は暴君で知られ、後宮に妓娼をたくさん引き入れ、王妃が邪魔な場合は処刑した。燕山君は、妓生を「泰平を運んでくる」という意味で「運平(うんぴょん)」と改称させ、全国から美女であれば人妻であれ妾であれ強奪し、「運上」させるよう命じた。全国から未婚の処女を「青女」と呼んで選上させたり、各郡の8歳から12歳の美少女を集め、淫したとも記録され、『李朝実録』では「王色を漁す区別なし」と記している。化粧をしていなかったり、衣服が汚れていた場合は妓生に杖叩きの罰を与え、妊娠した妓生は宮中から追放し、また妓生の夫を調べ上げて皆斬殺した。燕山君の淫蕩の相手となった女性は万にいたったともいわれ、晩年には慶会楼付近に万歳山を作り、山上に月宮をつくり、妓生3000余人が囲われた。 官卑・奴婢としての妓生 高麗・李朝時代の身分制度では、支配階級の両班、その下に中庶階級(中人・吏属)、平民階級があり、その下に賤民階級としての奴婢と七賤があった。林鍾国によれば、七賤とは商人・船夫・獄卒・逓夫・僧侶・白丁・巫女(ムーダン)のことをいい、これらは身分的に奴隷ではなかったのに対して、奴婢は主人の財産として隷属するものであったから、七賤には及ばない身分であった。奴婢はさらに公賤と私賤があり、私賤は伝来婢、買婢、祖伝婢の三種があり、下人を指した。奴婢は売買・略奪の対象であるだけでなく、借金の担保であり、贈り物としても譲与された。従母法では、奴婢の子は奴婢であり、したがってまた主人の財産であり、自由に売買された。そのため、一度奴婢に落ちたら、代々その身分から離脱できなかった。 朝鮮時代の妓生の多くは官妓だったが、身分は賤民・官卑であった。朝鮮末期には妓生、内人(宮女)、官奴婢、吏族、駅卒、牢令(獄卒)、有罪の逃亡者は「七般公賤」と呼ばれていた。 婢女は筒直伊(トンジキ)ともよばれ、下女のことをいい、林鍾国によれば、朝鮮では婢女は「事実上の家畜」であり、売却(人身売買)、私刑はもちろん、婢女を殺害しても罪には問われなかったとしている。さらに林は「韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っ掛かっている年ごろの娘たちの遺棄死体があったといわれる。局部に石や棒切れを差し込まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された不幸な運命の主人公であった」とも述べている。 両班の多くの家での婢女は奴僕との結婚を許されており、大臣宅の婢女は「婢のなかの婢は大官婢」とも歌われたが結婚は許されなかった。林鍾国は、婢女が主人の性の玩具になった背景には、朝鮮の奴隷制・身分制度のほか、当時の「両班は地位が高いほど夫人のいる内部屋へ行くことを体面にかかわるものと考えられたので、手近にいる婢女に性の吐け口を求めるしかなかった」ためとし、若くて美しい官婢が妾になることも普通で、地方官吏のなかには平民の娘に罪を着せて官婢に身分を落とさせて目的をとげることもあったとしている。 また、性的奉仕を提供するものを房妓生・守廳妓生といったが、この奉仕を享受できるのは監察使や暗行御使などの中央政府派遣の特命官吏の両班階級に限られ、違反すると罰せられた。 一牌・二牌・三牌・蝎甫(カルボ) 朝鮮社会では妓生の他にも様々な娼婦・遊女の形態があった。李能和によると、遊女の総称を蝎甫(カルボ)といい、中国語で臭虫という。蝎甫には、妓女(妓生)、殷勤者(ウングンジャ)、塔仰謀利(タバンモリ)、花娘遊女(ファランユニョ)、女社堂牌・女寺堂牌(ヨサダンペ)、色酒家(セクチュガ)が含まれた。 妓生は一牌(イルベ)といわれ、妓生学校を卒業後は宮中に出たり、また自宅で客をとったり、30歳頃には退妓し、結婚したり、遣り手や売酒業(実質的には売春業)を営んだ。 二牌(イベ)は、殷勤者または隠勤子といい、隠密に売春業を営んだ女性をさし、一牌妓生崩れがなったという。 三牌は搭仰謀利といい、近代化以前は京城に散在していたが、のちに詩洞(シドン)に集められ、仕事場を賞花室(サンファシル)と称して、三牌も妓生と呼ばれるようになった。 花娘遊女は成宗の時代に成立し、春夏は漁港や収税の場所で、秋冬は山寺の僧坊で売春を行った。僧侶が手引きをして、女性を尼として僧坊に置き、売春業を営んでいた。僧侶が仲介していた背景について川村湊は、李朝時代には儒教が強くなり、仏教は衰退し、僧侶は賤民の地位に落とされ、寄進等も途絶えたためと指摘している。 女社堂牌は大道芸人集団で、昼は広場(マダン)で曲芸や仮面劇(トッポギ)、人形劇を興行し、夜は売春を行った。男性は男寺堂(ナムサダン)といい、鶏姦の相手をした。女性は女寺堂(ヨサダン)といい、売春した。社堂(サダン)集団の本拠地は安城の青龍寺だった。川村湊は女社堂牌を日本の傀儡子に似ているといっている。 色酒家とは日本でいう飯盛女、酌婦で、旅館などで売春を行った。売酒と売春の店舗をスルチビといい、近年でもバーやキャバレーにスルチプ・アガシ(酒場女)、喫茶店(チケット茶房)ではタバン・アガシ(茶房女)、現在でもサウナ房(バン)(ソープランド)や「頽廃理髮所」ともよばれる理髪店でミョンド・アガシ(カミソリ娘)という女性がいる。 朝鮮には春画はないとも一部でいわれてきたが、風俗画家申潤福の「伝薫園」や、金弘道の「四季春画帖」など性交や性戯の場面を描いた春画も多数あり、朝鮮春画の登場人物はほぼすべて妓生と客であった。川村湊はこうしたエロティックアートのまなざしのなかで妓生だけが登場人物となった点を朝鮮春画の特色としたうえで、その背景に朝鮮儒教があり、「たとえ虚構の絵画のなかであっても、淫らなことを行い、性を剥き出しにし、露骨な痴態を示すのは妓生だけ」でなければならなかったと指摘している。
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