妓生制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 14:03 UTC 版)
朝鮮には、中国の妓女制度が伝わった妓生(きしょう、기생、キーセン)制度があった。韓国の梨花女子大学校編『韓国女性史』(1978年)によれば、妓女制度はもとは宮中の医療や歌舞を担当する女卑として妓生(官妓)を雇用する制度であったが、のちに官吏や辺境の軍人の性的奉仕を兼ねるようになった。山下英愛は「朝鮮社会にも昔から様々な形の売買春が存在した。上流階級では高麗時代に中国から伝わったといわれる妓女制度があり、日本によって公娼制度が導入されるまで続いた」と述べている。川田文子は、妓生のほかに雑歌をたしなむ娼女、流浪芸能集団であった女社堂牌(ヨサダンペ)、色酒家(セクチュガ)で働く酌婦などの形態があったが、特定の集娼地域で公けの管理を行う公娼制度とは異なるものであるとした。 また、在日朝鮮人歴史学者の金富子や梁澄子、在日韓国人の評論家の金両基らは、妓生制度は売買春を制度化する公娼制度とは言えないと主張している。金両基は多くの妓生は売春とは無縁であり、漢詩などに名作を残した一牌妓生黄真伊のように文化人として認められたり、妓生の純愛を描いた『春香伝』のような文学の題材となっており、70年代から90年代にかけて主に日本人旅行客の接待に使われたキーセン観光はとはまったく違うものであると反論した。(公娼の定義については#概念・大要を参照) 山地白雨が1922年に刊行した『悲しき国』(自由討究社)では「妓生は日本の芸者と娼妓を一つにしたやうな者で、娼妓としては格が高く、芸者としては、其目的に添はぬ処がある」「其最後の目的は、枕席に侍して纏綿の情をそそる処にある」と記している。同じ1922年に刊行された柳建寺土左衛門(正木準章)『朝鮮川柳』(川柳建寺社)では妓生を朝鮮人芸者のことで京都芸者のようだとし、蝎甫(カルボ)は売春婦であると書かれ、1934年の京城観光協会『朝鮮料理 宴会の栞』では「エロ方面では名物の妓生がある。妓生は朝鮮料理屋でも日本の料理屋でも呼ぶことができる。尤も一流の妓生は三、四日前から約束して置かないと仲中見られない」とあり、「猟奇的方面ではカルボと云うのがある。要するにエロ・サービスをする女である」「カルボは売春婦」であるとして、妓生とカルボとを区分して書かれていた。(蝎甫(カルボ)については後述する) 川村湊は「李朝以前の妓生と、近代以降のキーセンとは違うという言い方がなされる。江戸期の吉原遊郭と、現代の吉原のソープランド街が違うように。しかし、その政治的、社会的、制度的な支配−従属の構造は、本質的には同一である」とのべ、現代のソウルの弥亜里88番地のミアリテキサスや清凉里 588といった私娼窟にも「性を抑圧しながら、それを文化という名前で洗練させていった妓生文化の根本にあるものはここにもある」とも述べている
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