朝鮮の開国と日本の遊郭業の進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 07:56 UTC 版)
「妓生」の記事における「朝鮮の開国と日本の遊郭業の進出」の解説
1876年に李氏朝鮮が日本の開国要求を受けて日朝修好条規を締結した開国して以降は、釜山と元山に日本人居留地が形成され、日本式の遊廓なども開業していった。日本や海外からの文化流入により、妓生制度にも変化が見られるようになった。日本の芸者や遊廓制度、ロシアなどから白人の外娼 (甘人=カミンと呼ぶ) などが入り込み、従来の妓生制度と融合して区別が無くなっていった。李氏朝鮮末期には妓生組合が作られているが、これにより、従来雇い主を必要とした妓生も主人を持たない妓生業が行えるようになった。 また、地方の妓生がソウルに入り込み、妓生の形態が激変し、日本統治時代に確立した公娼制度に組み込まれた。また、大韓帝国の時代までは初潮前の少女を妓生とすることも多かったが、韓国併合後に少女を妓生とする事は禁止された。 金一勉と金両基は、朝鮮の都市に公然と遊廓が登場したのは日本人の登場以来の事で、朝鮮各地に娘の人身売買が公然と横行するようになったと主張している 。
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