文化流入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 06:57 UTC 版)
第十五代天皇の誉田別(ホムタワケ、応神天皇)は足仲彦天皇と気長足姫尊の子である。誉田別の治世では多くの渡来人が来朝した。阿直伎師、王仁、弓月君、阿知使主といった面々である。この頃に論語と千字文、すなわち儒教と漢字が伝わったと言われる。 第十六代天皇の大鷦鷯(オオサザキ、仁徳天皇)は難波堀江の開削、茨田堤の築造、山背栗隈県の灌漑用水設置、和珥池や横野堤の築造、感玖大溝(こむくのおおみぞ)の掘削を行って広大な田地を開拓した。疲弊した国の実情を察して三年間課税を止めた善政も有名である。また呉(中国南朝)に遣いを送り縫製の女工を求めてもいる。これは倭王「讃」の朝貢に比定されている。 第十九代天皇の雄朝津間(オアサヅマ、允恭天皇)は大鷦鷯の四男であり諸氏族の氏姓の乱れを正す改革を断行した。 第二十一代天皇の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケル、雄略天皇)は雄朝津間の五男であり即位に際して対立候補となる皇族を殺しつくして専制的な統治を行った。金錯銘鉄剣に記された大王「獲加多支鹵」(ワカタケル)と想定されており5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈されている。国内では吉備氏の反乱を制し養蚕を推奨した。国外では高句麗に滅ぼされた百済を復興し反抗的な新羅へ攻め込んだりもした。呉へ二度遣いを送って縫製の女工を求め、これが倭王「武」の朝貢に比定されている。 その後は皇族の少なさが祟り第二十五代天皇である小泊瀬稚鷦鷯(オハツセワカサザキ、武烈天皇)の崩御をもって大鷦鷯(仁徳天皇)以来の男系が絶えてしまう。
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