韓国併合後
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1910年(明治43年)9月30日 - 勅令368号により朝鮮総督府医院官制が発布され、「朝鮮総督府医院附属医学講習所」に改称。 院長1名、医官9名、教官1名、薬剤官1名、事務官1名、医院10名、書記・教員・調剤手・助手・通訳生24名をおくこととした。 医科(修業年限:4年)、助産婦科(2年)、看護婦科(1年半)を設置。 薬学科を廃止。旧・大韓医院附属医学校の生徒全員(薬学科を除く)を継承。 定員は各学年医科75名、助産婦科20名、看護婦科20名。 学問の教授は従来通訳を介して行われていたが、この時から国語(日本語)で行われることとなる。 1911年(明治44年) 2月 - 朝鮮総督府附属医学講習所規則および同講習所生徒学資給与規則が発布され、従来の官費本位が私費本位に改定され、学資支給に制限が設けられた。 4月 - 平壌と大邱慈恵医院医学生徒給費生7名と道長官からの委託給費による生徒23名、計30名が転入。 1912年(明治45年)5月 - 医学講習所卒業生が京城専修学校および官立高等普通学校卒業者と同等以上の資格を有することが認められる。 (大正元年)10月 - 各科の入学資格、修業年限、官費給費生の義務年限を以下の様に変更。医科 - 入学資格を高等普通学校卒業者とし、将来女子志願者も収容できることとする。官費給費生の義務年限を3年とする。 助産婦科 - 入学資格を医学講習所看護婦科の卒業生とし、修業年限を2年から1年に短縮する。官費給費生の義務年限を2年とする。 看護婦科 - 入学資格を尋常小学校(6年)卒業生または普通学校(6年)卒業生とする。官費給費生の義務年限を2年とする。 官費給費生の比率を減じて、定員の3分の1以下とする。 1913年(大正2年)3月 - 助産婦科・看護婦科第1回卒業式を挙行。9名が卒業。 1914年(大正3年)3月 - 医科卒業者に医師免許が付与されるようになる。 7月 - 助産婦科卒業者に産婆免許が付与されるようになる。 1916年(大正5年)4月 - 勅令第80号「朝鮮総督府専門学校官制」の公布により、「京城医学専門学校」に改称。所管が朝鮮総督府学務局に移る。教授3名、助教授1名、書記1名が配属される。校長は医院長が兼任する。 京城医学専門学校を朝鮮総督府医院から分立し、助産婦科および看護婦科を朝鮮総督府医院医育課に移管し、医学専門学校の設置学科を医科のみとする。 医科の生徒は前身の医学講習所から継承し、当該学年に編入の形をとる。 医科に占める内地人生徒の比率を定数の約3分の1と定める。 教育綱領を制定。 5月 - 在学者徴集(徴兵)猶予の件が認可される。 6月 - 解剖学教室1棟と講堂1棟が完成。 1917年(大正6年)1月 - 文部省令により、卒業生の文官任用が認定される。 12月 - 医化学薬物教室1棟などが完成。 1918年(大正7年)7月 - 生徒定員を300名から400名に増員。 8月 - 勅令313号により、特別医学科を設置。特別医学科卒業生は内地の官立(国立)医学専門学校卒業生と同等の資格を有することが認められる。 従来の生徒の内鮮人を問わず、有資格者は選考の上、特別医学科の当該学年に編入することとする。 11月 - 病理学教室1棟と孵卵器室(煉瓦造り)1棟が完成。 1919年(大正8年)2月 - 特別医学科卒業生は京城医学専門学校医学士を称することができるようになる。 11月25日 - 海軍軍医生1名が採用される。 1920年(大正9年)3月 - 特別医学科第1回卒業式を挙行。23名が卒業。 7月 - 生理学教室1棟と病理解剖室1棟が完成。 11月29日 - 陸軍衛生部委託生徒1名を採用。 1921年(大正10年)4月 - 女子聴講生3名の聴講を許可(女子受け入れの試行)。 11月 - 第1・第2講堂が完成。 12月 - 組織学実習生講義室1棟が完成。 1922年(大正11年)2月 - 朝鮮教育令の改正に伴い、従来の規程(1916年(大正5年)制定)を廃止し、朝鮮総督府京城医学専門学校規程を制定。入学資格を中学校または新令の高等普通学校卒業程度に高め、それによる入学生を本科生とする。 上記の入学資格を有しない朝鮮人のために、当分特科の制度を設け、その入学資格を旧制度による本科入学資格と同程度とする。 6月 - 動物室(煉瓦造り)1棟が完成。 12月 - 校歌を制定。 1923年(大正12年)5月 - 内務省より、本科卒業生(特科を除く)は医師法第1条の資格を有する者であると通達される。 7月 - 朝鮮総督府道慈恵医院医員依託生の件が認可される。 1924年(大正13年)5月 - 文部省告示第290号により、本科卒業生(特科を除く)は高等学校または大学予科卒業生と同等であると指定される。 1927年(昭和2年)6月27日 - 朝鮮総督府諸学校官制が改正され、専任校長が置かれることとなり、医学博士の佐藤剛蔵が校長事務取扱を命じられる。 1928年(昭和3年)5月28日 - 勅令97号により、附属医院を設置。 6月30日 - 陸軍現役将校が配属される。 11月29日 - 京城府昭格町に煉瓦造り2階建ての附属医院建物一部が完成し、開院。 1929年(昭和4年)5月9日 - 看護婦養成科を設置。 12月25日 - 附属医院敷地内に鉄筋コンクリート造3階建ての病棟1棟が完成。 1930年(昭和5年)6月18日 - 特科を廃止。 1931年(昭和6年)10月2日 - 朝鮮総督府道慈恵医院医員依託生制度を廃止。 1932年(昭和7年)5月10日 - 附属医院外来診察所(鉄筋コンクリート造3階建て)の一部が完成。 1933年(昭和8年)1月26日 - 外国人の入学を許可。 5月23日 - 附属委員に薬剤手を設置。 7月8日 - 薬物学を薬理学に改称。 11月3日 - 校旗代旗推戴式を挙行。 12月15日 - 外来診療所がすべて完成。 1934年(昭和9年)5月19日 - 大邱・平壌両医学専門学校卒業生30名の3ヶ月間補習教育を終了。 8月3日 - 附属委員に看護長を置く。 1935年(昭和10年)7月5日 - 生徒監を生徒主事に改称。 1937年(昭和12年)3月 - 朝鮮教育令の改正により、翌4月に京城医学専門学校規程を改定。 1938年(昭和13年)11月12日 - 附属医院に結核病棟と内科的講堂が完成。 1940年(昭和15年)4月1日 - 京城医学専門学校規程を改正し、第1条に本校教育の目的を明示。
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