朝鮮の陽明学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 13:48 UTC 版)
「李氏朝鮮の学問#陽明学」も参照 朝鮮半島の陽明学については 中 2013, 馬淵 2011 が詳しい(本項では未参照)。 朝鮮半島には16世紀初めに齎された。その初期に陽明学を奉じた者としては南彦経と李瑶がいる。 次いで許筠と張維が出て、陽明学を発展させた。許筠は陽明学の立場から朱子学の礼教的側面を批判し、また、朝鮮では最も早く人欲を肯定した思想家である。張維は朱子学の「知先行後」を論難し、陽明学の「知行合一」を賞賛した。また陽明学の個性尊重の側面を受け継ぎ、「自治・自立・自主」に重きを置いた学説を説いた。 その後に張維の影響を強く受けて、朝鮮陽明学の代表ともいえる鄭斉斗(霞谷)が出た。彼は朱子の理気二元論に異を唱え、理と気は一体不可分であるとし、また「知行合一」を称揚して実践を重視した。当時李氏朝鮮でも朱子学は形骸化しつつあったが、鄭は陽明学によって儒教を再生することを唱えるに至る。 しかし、朝鮮の陽明学は一貫して少数派の地位を脱し得ず、本場中国以上に朱子学派から抑圧され、徐々に衰退した。例えば、李滉(退渓)は『伝習録弁』で陽明学を厳格に批判した。 陽明学の朝鮮史における影響は日中に比して高いと言い難いが、実学や経世致用の思想には影響が認められる。 大韓帝国末期から日本統治時代には、朴殷植や鄭寅普が陽明学を論じた。
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