コミンフォルムによる指図
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:57 UTC 版)
「中核自衛隊」の記事における「コミンフォルムによる指図」の解説
1950年1月6日、コミンフォルム(共産党国際情報局)の機関誌『恒久平和のために人民民主主義のために!』に「日本の情勢について」が発表され、野坂参三の平和革命論が批判された。野坂参三はこの批判を受け入れ修正する一方、日本共産党の軍事方針・武装闘争路線をすすめるようになった。また同年1月12日に日本共産党は『「日本の情勢について」に関する所感』を発表する。1950年5月30日の人民広場事件で共産党デモ隊と占領軍が衝突すると、6月6日に日本共産党幹部が公職追放となり、同年7月には9人の日本共産党幹部について団体等規正令に基づく政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反容疑で逮捕状が出た(レッドパージ)。徳田球一らは所感派と称して地下活動を開始し、同1950年10月、所感派指導部発行(編集責任は伊藤律)の『平和と独立』(10月7日号)・『内外評論』(10月12日特別号)誌で「共産主義者と愛国者の新しい任務−力には力をもってたたかえ」を発表、国会は「帝国主義の独裁を民主主義の偽装によって人民の目をゴマかすための金のかかった道具にすぎない」「決死的な人民武装勢力の闘争なしには」人民政府は樹立されないとして武装闘争、暴力革命を訴えた。
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