コミンフォルム批判・地下活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 09:27 UTC 版)
「徳田球一」の記事における「コミンフォルム批判・地下活動」の解説
1950年(昭和25年)1月6日、日本共産党の平和革命路線を批判するコミンフォルムの論文「日本の情勢について」が『恒久平和のために人民民主主義のために!』に掲載された。これに対して「『日本の情勢について』 に関する所感」を発表して反論した徳田ら党執行部は、コミンフォルム批判の積極的受け入れを主張した宮本顕治らと対立した(所感派・国際派の項を参照)。ただし、中国共産党からの批判も受け、1月18日から開かれた第18回拡大中央委員会においてはコミンフォルム批判の積極的意義を認める決議が出されている。 同年2月には徳田要請問題が発生し、その後徳田は衆参両院の委員会で証人喚問を受けている。 6月6日に公職追放を受け(レッドパージ)、7月15日には団体等規正令に基づく出頭命令を拒否した団規令事件で逮捕状が出されたため、地下に潜行した。同年8月には、宮本ら国際派がコミンフォルムから批判されて徳田らの所感派が名実ともに主流派となるが、このとき徳田は糖尿病その他合併症により余命4年という健康状態であったため、10月に大阪港から中華人民共和国に亡命した。
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