コミーヌの前哨戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 15:40 UTC 版)
「ローゼベーケの戦い」の記事における「コミーヌの前哨戦」の解説
自分たちが支配するフランドルの平民たちの反乱に直面したフランス貴族たちは事態を重視し、フランドル伯の援軍を決めた。約12,000のフランス軍の中には国王シャルル6世、摂政フィリップ豪胆公、「屠殺者」の異名を持つフランス総司令官オリヴィエ・ド・クリッソンらの姿があった。フランスの伝説的な深紅の軍旗「オリフラム」(黄金の炎の意、戦場で掲げられている間は敵に慈悲を見せず捕虜はとらないとされた)がポワティエの戦い以来約30年ぶりにフランス軍の陣頭に翻った。 レイエ川近くのコミーヌ(英語版)に差し掛かったフランス軍は900人のフランドル軍の足止めに遭った。橋が落とされていたため、クリッソンは志願した400騎を率いて秘かに渡河し、翌朝戦闘が始まると対岸から本隊を援護した。クリッソンの奇襲もあり、レイエ川には再び橋が架けられ、川を渡ったフランスの大軍はフランドル槍兵を追い払った。この小競り合いの後、多くのフランドルの都市がフランス王に高額の賠償金を支払って和を請うた。
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