広義の大正政変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:11 UTC 版)
冒頭に示した通り、大正政変の時期には広狭二義ある。 第1次山本内閣の時代を含めることにより、この時期の民衆が一方では憲政擁護運動以来の反閥族感情を保ちながらも、他方では1913年7月の中国第二革命の混乱に際しては、革命派擁護を名目とする対中出兵論に容易に乗るような大正デモクラシーの一側面が視野にはいってくる。松尾尊兊はこれを「内には立憲主義、外には帝国主義」という二面性をもったものとして説明している。 シーメンス事件によって第1次山本内閣が倒れたのち、民衆に人気のある大隈重信が立憲同志会、大隈伯後援会および中正会を与党として2回目の組閣をおこなったが、ここでは山東半島におけるドイツ勢力の駆逐と中国利権の確保を契機として、政友会と国民党は選挙で敗北し、陸軍二個師団増設が議会を通過し、のちに中国人のナショナリズムをおおいに刺激することになる「対華21か条要求」が国民的承認をうけるのであった。
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