タフト=ハートリー法
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1947年労使関係法 (Labor Management Relations Act, 1947) 、通称タフト=ハートリー法 (Taft-Hartley Act) (P.L.80-101, 61 Stat. 136、1947年6月23日制定)は、労働組合の活動と勢力を監視する米国連邦法である。同法は、ロバート・タフト上院議員とフレッド・A・ハートリー・ジュニア下院議員が推進し、ハリー・S・トルーマン大統領の拒否権行使を乗り越えて1947年6月23日に成立し、現在も効力を保っている。労働界首脳部は同法を「奴隷労働法」と呼び[1]、トルーマン大統領は同法が「言論の自由に対する危険な介入」[2]であり、「我が国の民主主義社会の根本原理に抵触する」[3]と主張した。のみならず、トルーマンはその後の在任期間中、こうした表現を12回にわたって用いた[4]。タフト=ハートリー法は、1935年に成立した全国労働関係法(National Labor Relations Act, NLRA:通称ワグナー法)を修正した。同法の主な起草者は、シンシナティの法律事務所「[タフト・ステティニアス&ホリスター」のJ・マック・スウィガート (J. Mack Swigert) である[5]。
- ^ “National Affairs: Barrel No. 2”. Time. (1947年6月23日) 2010年5月24日閲覧。
- ^ a b Debating 'Citizens United', The Nation (2011-01-13)
- ^ Harry S. Truman: Veto of the Taft-Hartley Labor Bill
- ^ a b Preis, Art (1964). Labor's Giant Step: The First Twenty Years of the CIO. Pathfinder Press. ISBN 0-87348-263-8
- ^ Peale, Cliff (2000年9月4日). “Local lawyer had role in labor law”. Cincinnati Enquirer. 2012年6月6日閲覧。
- ^ Cochran, Bert (1979). Labor and Communism: The Conflict That Shaped American Unions. Princeton University Press
- ^ Smith, Sharon (2006). Subterranean Fire: A History of Working-Class Radicalism in the United States. Haymarket Books. ISBN 1-931859-23-X
- ^ a b Anna McCarthy, The Citizen Machine: Governing by Television in 1950s America, New York: The New Press, 2010, p. 54. ISBN 978-1-59558-498-4.
- ^ Fleischli, George R. (1968 May–June). “DUTY TO BARGAIN UNDER EXECUTIVE ORDER 10988”. Air Force Law Review.
- ^ a b Nicholson, Phillip (2004). Labor's Story in the United States. Temple University Press. ISBN 1592132391
- ^ Gruenberg, Mark (2007年6月11日). “Taft-Hartley Signed 60 Years Ago”. Political Affairs Magazine. 2013年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年6月6日閲覧。
- ^ Davis, Mike (2000). Prisoners of the American Dream: Politics and Economy in the History of the US Working Class. W. W. Norton & Company. ISBN 1-85984-248-8
- 1 タフト=ハートリー法とは
- 2 タフト=ハートリー法の概要
- 3 背景
- 4 クローズド・ショップ
- 5 監督者の扱い
- 6 その他
- 7 関連項目
タフト=ハートリー法
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「フレッド・A・ハートリー・ジュニア」の記事における「タフト=ハートリー法」の解説
ハートリーは戦後の労働争議が極めて不穏な状況になっているのを見て取り、政治経済の安定に対する脅威を感じた。共和党は1946年、ハートリーが初当選した1928年の選挙以来となる、議会両院での過半数奪還を果たした。 所属する共和党が過半数を占めたのに伴い、ハートリーは第80議会の教育労働委員会委員長に就任した。 翌年彼は、労働厚生委員会委員長であったロバート・タフト上院議員と共に、彼の考える労働者の不品行を抑制する法案を導入した。成立したタフト=ハートリー法は制定のワグナー法(正式には「1935年全国労働関係法」)の大改定であると共に、戦後の議会が可決した、ニュー・ディール関連諸法の初の大改定でもあった。同法は第2次ボイコットなどの労働戦術に制限を課すと共に、労働権法を制定するか否かを選ぶ権利を各州に与えた(24州が制定)。同法第14節 (b) に書かれたこの規定は、同法の中でも最も論争を巻き起こした規定の1つであった。 ハリー・S・トルーマン大統領は法案に対する拒否権を発動したが、共和党と結んだ多くの民主党員は1947年6月23日、大統領の拒否権を覆した。主要労働組合全ての綱領には同法(特に第14節 (b) )の廃止要求が盛り込まれ、時には民主党の綱領にも反映された。しかし、同法廃止の可能性が高まったのは、1964年の選挙で共和党が大敗し、民主党が議会両院で圧倒的多数を占めた時だけであった。廃止法案は221票対203票で下院を通過したが、当時の少数党院内総務エヴァレット・ダークセンなど共和党勢力による議事妨害を長きにわたって受けたため、上院で必要な3分の2の賛成多数が実現することはついになかった。労働同盟は議事妨害を打破できず、結局廃止法案は1966年2月10日、モンタナ州選出の民主党議員で多数党院内総務のマイク・マンスフィールドによって廃案となった。 ハートリーは、己の名を冠する法案が可決された会期を務めた後の選挙には出馬を希望せず、1949年1月3日に政界から引退した。
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