1928年の選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 09:19 UTC 版)
「アル・スミス (ニューヨーク州知事)」の記事における「1928年の選挙」の解説
詳細は「1928年アメリカ合衆国大統領選挙」を参照 スミスが「3つのP、すなわち禁酒(Prohibition)、偏見(Prejudice)および繁栄(Prosperity)」で敗れたというしばしば引用される所見を作ったのは記者のフレデリック・ウィリアム・ワイルだった。 共和党はこの時も1920年代の経済的好況の恩恵を受けており、共和党大統領候補ハーバート・フーヴァーはその継続を公約した。歴史家達は、繁栄とともに反カトリック教感情がフーヴァーを当選させたが、フーヴァーはそれまで大統領職を求めたことはなかった。1928年の選挙ではフーヴァーがスミスに対して地滑り的勝利を得た。 スミスはカトリック教徒として初めて主要政党の候補指名を受けた(カトリック教徒で最初に大統領になったのはジョン・F・ケネディであり、最初の候補者はチャールズ・オコーナーだが二大政党ではなかった)。最も議論を呼んだ問題は禁酒法を継続するかということだった。スミス個人は禁酒法が国の憲法の一部として法制化されていたものの、その緩和か撤廃に賛成していたが、民主党はこの問題で北と南に分かれた。スミスは選挙運動期間中この問題には言質を与えないでかわそうと努めた。 スミスはフーヴァーと同様、良き政府と効率についてはっきりと提唱する者だった。しかし、その選挙運動では「その記録を見てみよう」と言ったことでも知られるようになった。スミスは1920年や1924年の選挙では分裂していたカトリック教徒票をまとめ上げ、特に女性を含め初めて数百万のカトリック教徒票を得た。しかし、民主党の重要な支持基盤である北部の田舎や南部の都市と郊外は失った。その副大統領候補、アーカンソー州出身のジョセフ・ロビンソンのお陰もあり、ディープサウスを制し、合衆国で人口の多い10都市も制した。スミスが敗北した原因の幾つかは、大統領としてのスミスが憲法よりもローマ法王に従うのではないかという怖れ、ニューヨーク市の力に対する恐れ、タマニー・ホールとの結びつきで汚職の長い歴史に対する嫌悪感、さらにはスミス自身の可もなく不可もない選挙運動が挙げられた。スミスの選挙運動歌『ニューヨークの歩道』は田舎の人々には受けが良くなく、「ラディオ」というような都会風の発音が幾分外国人のように見えた。スミスはニューヨーク州で負けたが、仲間の民主党員フランクリン・ルーズベルトはスミスに代わってニューヨーク州知事に選ばれた。ジェイムズ・ファーリーはスミスの地盤をルーズベルトの知事選挙に使って成功させ、後には1932年と1936年の大統領選挙でもルーズベルトを当選させた。
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