第一次世界大戦の後始末
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「アメリカ合衆国の歴史 (1918-1945)」の記事における「第一次世界大戦の後始末」の解説
1919年に人気のあった「ティン・パン・アレー」(楽譜出版社の集まり)の歌は、第一次世界大戦から戻ってくるアメリカ軍兵士に関して、「パリを見た後では彼等をどうやって農場に縛り付けておけるだろう?」と問うていた。実際に彼等は農場に留まらず、若者の近くの町や小都市への大きな移動が起こった。移動した距離は平均してほんの10マイル (16 km) に過ぎなかった。人口10万人以上の都市に行った者は少なかった。しかし、農業はトラクターなど重機械の利用が広まって機械化され、州立の農業大学に雇用され連邦政府が財政を支援した郡の農業指導員を通じて優れた技術が普及された。 1919年、ウィルソン大統領は自分が設立の推進者になった国際連盟にアメリカ合衆国を加盟させるべく運動を進めたが、この問題に関する共和党の妥協案を拒否したために上院の3分の2以上の多数の賛成を得られなかった。夏から秋に掛けて、連盟加盟のために全国に渡る大変な遊説を行ったが、これが彼の健康を損なった。10月2日、ウィルソンはホワイトハウスで重い脳卒中のために倒れ、片目が失明し身体の一部が麻痺したままとなった。その後いくらかは快復したが元通りにはならなかった。連邦議会は連盟加盟を拒否しアメリカ人の一般的な孤立主義の考え方に影響を残した。 第一次世界大戦後にドイツは連合国に対する賠償金を支払えない恐れがあった。アメリカ合衆国が実質的に賠償金支払いを助けた。アメリカはドーズ・プランの下にドイツに金を貸し、イギリスやフランスに賠償金を支払わせて、それでイギリスやフランスがアメリカに対する戦時負債を支払うように仕向けた。1920年代、ヨーロッパとアメリカの経済は工業生産と繁栄で新しい高みに達した。 アメリカ合衆国の女性は長い参政権運動を経て全州および連邦政府の選挙での投票権を得るために、男性議員の多数から必要な賛成票を獲得できた。女性は1920年の大統領選挙と連邦議員選挙から参加した。政治家達は自らを律して、世界の軍縮、児童労働、母親の年金および特に禁酒法など女性に訴えることのできる問題に対応した。女性もこれらの問題に反応したが、投票結果を見ると男性と同様な見解を分かち合い、同じような投票行動を起こした。ローマ・カトリック教徒の女性は1920年代初期は投票を躊躇っていたが、カトリックが問題になった1928年の選挙では大量に有権者登録を行った。まだ選挙で選ばれる職に就く女性は少なかったが、この時代に特に著名になった女性はいなかった。全体として、女性の権利運動はスーザン・B・アンソニーのような傑出した活動家が死亡し、それに代わる者が現れなかったために1920年代は低調だった。
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