第一次世界大戦の戦歴
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「ハインツ・グデーリアン」の記事における「第一次世界大戦の戦歴」の解説
グデーリアン家は大土地所有者の一族で、ハインツはヴァイクセル河畔のクルム (現在のポーランド領ヘウムノ) で生まれた。父フリードリヒ・グデーリアン(ドイツ語版)はプロイセン王国の軍人であったが、これはこの一族としては珍しいことであった。フリードリヒは1914年に退役した際は中将に昇進している。 幼少期から軍人を志し、カールスルーエ陸軍幼年学校からベルリンの陸軍士官学校へ進学した。1907年に卒業した後は陸軍少尉候補生としてハノーファー第10猟兵大隊に配属されたが、まもなくメッツの軍事学校に配置された。軍事学校での生活はグデーリアンにとって苦痛であったが、将校任用試験に合格し、1908年1月27日付けで少尉に任官、ハノーファー第10猟兵大隊第三中隊の隊長となった。1910年、第10猟兵大隊はゴスラーに移り、「ゴスラー第10猟兵大隊」の名前で呼ばれるようになった。1912年には、上官でもあった父フリードリヒのすすめで、コプレンツ第3電信大隊に勤務し、無線技術に通じるようになる。1913年には医学博士エルンスト・ゲルネの娘、マルガレーテと結婚した。マルガレーテの又従兄弟にはグデーリアンの親友であったボーデウィン・カイテル(ドイツ語版)がおり、その兄はヴィルヘルム・カイテルであった。さらにグデーリアンは陸軍大学校への入学試験に合格し、陸軍内での出世コースに乗ることとなる。しかし1914年には第一次世界大戦が勃発し、グデーリアンは第5騎兵師団第3無線局長に配属された。10月には第4軍麾下の第14無線局長に配属され、一ヶ月後には中尉に昇進した。1915年5月17日からは第4軍の秘密情報機関に転属され、1916年2月9日には第5軍秘密情報機関副官となり、以降は各師団や軍の参謀職を歴任し、1918年2月18日には昇進試験に合格したことによって正式な参謀本部付きの参謀となった。9月20日にはオーストリア=ハンガリー帝国によるイタリア占領地でドイツ軍代表として休戦交渉に参加する事となっていたが、交渉への参加を拒絶され、ミュンヘンに戻った。 ドイツ革命の混乱は将校としての誇りを持つグデーリアンにとって耐え難い苦痛であった。また、休戦が成立したといってもボリシェヴィキ政府やポーランド政府が成立したばかりの東部国境の情勢は不安定であり、グデーリアンは東部国境を防衛する各司令部に配属された。1919年5月30日にはラトビアでボリシェヴィキ軍と戦っていたドイツ義勇軍鉄師団(ドイツ語版)兵站参謀に任ぜられた。この頃鉄師団はラトビアのカールリス・ウルマニス政権とも戦うなど暴走を始めており、ドイツ軍中枢は穏便に鉄師団を引き上げさせようとしていた。しかし、グデーリアンは鉄師団がまるごと脱走し、白軍に参加してボリシェヴィキと戦うという作戦を立案した。鉄師団司令官リュディガー・フォン・デア・ゴルツ(ドイツ語版)はこの策を容れ、介入を決めた連合国軍と戦って敗れることとなるが、グデーリアン自身はこれ以前に本国に召還され、参謀職を解かれている。
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