女性の権利運動
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「トーマス・ウェントワース・ヒギンソン」の記事における「女性の権利運動」の解説
トーマスは、南北戦争前の10年ほどの間、女性の権利運動を擁護する男性側の指導者の一人であった。1853年に開催されたマサチューセッツ州憲法会議(英語版)において、彼は、新憲法を承認する投票に女性の参加を認めるべきだとする請願を支持する演説を行った。このときの演説が『女性とその願い』として出版されると、1859年に彼がアトランティック・マンスリー誌に寄稿した論文「女性は文字を学ぶべきか」同様、女性の権利運動のパンフレットとして長年用いられた。 女性の権利運動の指導者であるルーシー・ストーンがヘンリー・B・ブラックウェルと1855年に結婚した際、彼女の親友としてトーマスは結婚式の司会を引き受けた上、不公平な婚姻法に対する抗議文書として有名になった「婚姻に際しての抗議」の文責者としてこれをマスコミに送り付けた。 男女間の収入格差や全国的運動の最初の7年間の成果をまとめた『女性の権利年鑑1858年版』の編集・出版もストーンと共同で行った。 また、同じ1858年に『民主主義の徹底:女性に選挙権を――25人の著名人の証言』と題して、ウェンデル・フィリップス、ヘンリー・ウォード・ビーチャー、ウィリアム・ヘンリー・チャニング(英語版)、ホレス・グリーリー、ゲリット・スミス(英語版)ほか、知事、国会議員らの女性参政権を支持する演説や論説、国会報告の抜粋をまとめた本を編集・出版している。 1853年または1854年以降、1858年に州代表が大幅に減らされたときまで、彼は女性の権利全国中央委員会()の委員の地位にあった9人の活動家の一人であった。 南北戦争後、トーマスは1868年にニューイングランド女性参政権協会を、翌年にはアメリカ女性参政権協会を組織した。1870年に創刊された参政権を取り扱った新聞「女性ジャーナル」では当初から編集者をつとめ、14年間にわたって1面コラムを寄稿した。1880年から1882年の2年間、マサチューセッツ州議会議員にもなり、女性参政権運動と立法府をつなぐ重要な役割を果たした。
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