第一次世界大戦に至る欧州、特に英独間の建艦競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:28 UTC 版)
「建艦競争」の記事における「第一次世界大戦に至る欧州、特に英独間の建艦競争」の解説
「英独建艦競争(英語版)」も参照 欧州の新興勢力であるドイツ帝国は、皇帝ヴィルヘルム2世とティルピッツ海相の指導下にて「ドイツの将来は海上にあり」のスローガンの下、海軍力の建設に邁進した。 最初に公布された第一次艦隊法(1898年)においては戦艦19隻(艦齢25年)を中心とした比較的穏当なものであったが、1900年の第二次艦隊法では明確にイギリス海上権への挑戦を宣し、「彼が我と戦えば、我が負けても彼も回復困難な損耗を受ける」というリスク理論を提唱して戦艦戦力を倍の38隻に増強する大軍拡を開始した。以後1908年、1912年と改訂を繰り返し、総戦力は戦艦41隻(艦齢20年)と大巡洋艦20隻を中核とした、イギリス本国艦隊を上回る程の規模にまで成長せんとした。 挑戦を受ける立場のイギリスも建艦を拡大した。その渦中、1906年に就役した「ドレッドノート」が軍艦史上極めて重要な意義を持ち、弩級戦艦時代を開幕させた。この艦は建艦競争にも重大な影響をもたらした。「ドレッドノート」以前と以後で一線を画するほどの性能差は、それまで保有していた戦艦群を(建造中のものまで含めて)一挙に陳腐化させた。つまり列強各国は、「ドレッドノート」により海軍力を事実上リセットされたも同然の状態となった。特にドイツはこれを好機として弩級戦艦の建造に邁進し、急速に戦力を拡充していった。一方のイギリスもドイツ大洋艦隊への優位を再び確立するべく、イギリス連邦諸国の寄付金を募ってまで建造費を確保した。 技術の発達は戦艦の性能を急速に向上させ、程なく超弩級戦艦さらには高速戦艦が登場するようになった。当然建造費は高騰し、時に年間8隻もの戦艦・巡洋戦艦を起工するという凄まじい建艦競争は、英独双方に過大な財政負担を与えつつあった。この状況は両国にとって望ましいものではなく、軍縮を目指した政治的な働きかけも行われた。しかし対独二倍を目標とするイギリスと、十五割以上の優勢は不可とするドイツの主張は結局相容れず、両国の対立は深刻さを増していった。 英独建艦競争推移(戦艦) 太字は最初のド級艦計画年度イギリスドイツ隻数トン数艦級隻数トン数艦級1901年 3隻 47,205t キング・エドワード7世級 2隻 26,416t ブラウンシュヴァイク級 1902年 2隻 31,470t 3隻 39,624t 1903年 5隻 70,990t キング・エドワード7世級スウィフトシュア級 1隻 13,191t ドイチュラント級 1904年 2隻 33,745t ロード・ネルソン級 2隻 26,382t 1905年 1隻 18,110t ドレッドノート 2隻 26,382t 1906年 3隻 56,400t ベレロフォン級 2隻 37,746t ヴェストファーレン級 1907年 3隻 58,500t セント・ヴィンセント級 2隻 37,746t 1908年 1隻 19,680t ネプチューン 3隻 68,424t ヘルゴラント級 1909年 6隻 129,250t コロッサス級オライオン級 3隻 72,256t ヘルゴラント級カイザー級 1910年 4隻 92,000t キング・ジョージ5世級 3隻 74,172t カイザー級 1911年 4隻 100,000t アイアン・デューク級 3隻 77,388t ケーニヒ級 1912年 5隻 137,500t クイーン・エリザベス級 3隻 82,996t ケーニヒ級バイエルン級 1913年 5隻 140,000t ロイアル・サブリン級 1隻 28,800t バイエルン級 1914年 3隻 84,000t 1隻 28,800t 英独建艦競争推移(巡洋戦艦)計画年度イギリスドイツ隻数トン数艦級隻数トン数艦級1901年 1902年 1903年 1904年 1905年 3隻 52,065t インヴィンシブル級 1906年 1907年 1隻 19,370t フォン・デア・タン 1908年 1隻 18,470t インディファティガブル級 1隻 22,979t モルトケ級 1909年 2隻 52,540t ライオン級 1隻 22,979t 1910年 3隻 63,770t インディファティガブル級ライオン級 1隻 24,988t ザイドリッツ 1911年 1隻 28,430t タイガー 1隻 26,600t デアフリンガー級 1912年 1隻 26,600t 1913年 1隻 26,947t 1914年 1隻 31,000t マッケンゼン級 イギリス大艦隊 ドイツ大洋艦隊 最終的には第一次世界大戦勃発の一因と後世に評価される程の両国の軍拡は、周辺諸国にも波及した。特に英独双方と領海を接するフランスはこれを座視するわけにはいかず、1900年に「装甲艦28隻整備構想」を提唱して1920年までに28隻の装甲艦(戦艦)を建造することとした。日露戦争で壊滅的打撃を受けたロシア帝国も追随し、1908年から1918年までに隔年毎4隻の主力艦を起工する再整備計画を策定した。より国力の劣るイタリアや、想定戦場が狭く強大な海軍力を必要としないオーストリア=ハンガリー帝国、さらにスペインやギリシャ、オスマン帝国等も次々と弩級戦艦を計画・建造していった。 海の向こうでは、アメリカが英独建艦競争に反応していた。ちょうど太平洋方面に勢力を拡大する過程にあったこともあり、1903年発足した将官会議において「1919年までに戦艦48隻を中核とする世界第二位の海軍建設」が提唱された。この基本方針は後にダニエルズ・プランに発展する。 そして日露戦争に勝利し世界第3位の海軍国に躍進した日本もまた、対立が深まりつつあったアメリカに対抗するためにより強力な海軍を求めていく。しかし日本は戦利艦となった旧ロシア戦艦の再整備にリソースを取られて弩級戦艦時代に乗り遅れてしまう。次第に拡大する列強諸国との戦力差に焦る日本はその格差を埋めるため、最後の外国製主力艦となる「金剛」をイギリスに発注するとともに、新たな基本方針となった八八艦隊の実現に向け建艦を進めていく。
※この「第一次世界大戦に至る欧州、特に英独間の建艦競争」の解説は、「建艦競争」の解説の一部です。
「第一次世界大戦に至る欧州、特に英独間の建艦競争」を含む「建艦競争」の記事については、「建艦競争」の概要を参照ください。
- 第一次世界大戦に至る欧州、特に英独間の建艦競争のページへのリンク