計画・建造
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1916年(大正5年、「洲埼」を含む八四艦隊計画と同時期)に計画された。この当時の日本海軍の戦艦、巡洋戦艦の重油搭載量は約1,100トンに達していたが、従来の300トン積重油船ではその搭載に時間と労力がかかった。また重油輸送には建造中の給油船「志自岐」の他に少なくても2隻が必要とされた。そこで大正5年度の軍備補充費の雑船製造をやり繰りし1,100トン積重油船を1隻建造、翌年度以降に予算が許せばもう1隻建造することが1月27日に提案された。この提案は同年3月に認められ、5月31日に呉宛に製造訓令が出された。 同年6月26日に「剣埼」と命名。当初は大正5年度中(翌年3月末まで)に竣工の予定だったが、材料の遅れや後述のディーゼルへの改造に手間取るなど、後に竣工期日は7月末、8月末、11月末と3度変更された。翌1917年(大正6年)2月27日(または3月5日)呉海軍工廠で起工、6月20日進水、11月30日竣工した。
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計画・建造
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第一次世界大戦が勃発した時、日本海軍の航洋型駆逐艦は一等の海風型2隻、二等の桜型2隻の4隻しかなかった。このため1914年(大正3年)8月23日のドイツへの宣戦布告から5日後の8月28日に、海軍大臣は臨時軍事費による駆逐艦10隻の建造を要請、帝国議会で承認され、9月9日には天皇の裁可を受けた。予算は大正3年会計年度(大正4年3月末まで)のみであり、翌年春までに全艦竣工というスピード建造であった。 このために海軍工廠4か所(横須賀、呉、佐世保、舞鶴)と駆逐艦建造経験のある民間造船所4か所(三菱長崎造船所、川崎造船所、浦賀船渠、大阪鉄工所)を総動員し、横須賀海軍工廠と呉海軍工廠では進水工事の手間を省くために乾ドック内で建造を行い、また川崎造船所と三菱長崎造船所では2隻同時に並行建造を行った。工事は最優先で、機関や艤装品も順調に納入され、全艦起工から5カ月以内に竣工した。一番早く竣工した横須賀海軍工廠建造の「樺」の場合で起工から105日で竣工した。 このような急速建造が可能となった要因の1つとして、後述するように機関にレシプロを採用したことにあった。これは戦時型の駆逐艦には、量産に適した機関の選定が重要なことを示している。 なお10隻の建造費は予算1057万円余り、実際の支出額は9,898,563円(円未満省略)だった。
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計画・建造
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日本海軍は1915年(大正4年)に八八艦隊を目指す前段として八四艦隊案を策定し、防務会議でそのうちの一部が決議された。巡洋艦は3,500トン型2隻が含まれており、設計も同年中に完了した。その予算は第37回帝国議会の協賛を得て1916年(大正5年)2月24日に公布、本型の2隻は1隻4,550,000円で大正5年度(1916年4月開始)から大正7年度(翌1919年3月まで)の予算になった。 「天龍」は横須賀海軍工廠で、「龍田」は佐世保海軍工廠で建造され、1919年3月31日に「龍田」が竣工、タービンに故障が頻発した「天龍」は竣工が遅れ、同年11月20日になった。 1917年(大正6年)成立の八四艦隊完成案でも天龍型6隻と新型の7,200トン型軽巡3隻が当初計画されていた。しかし敵の巡洋戦艦に遭遇したときに天龍型の速力33ノットでは逃げ切れず、また砲力強化の要望もあり、7,200トン型は計画中止、天龍型に代わって5500トン型軽巡洋艦9隻の建造に計画は改められた(球磨型5隻と長良型3隻、1隻は「夕張」(3,100トン試作型)になる)。結局天龍型は2隻のみの建造となった。
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計画・建造
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前型の千鳥型水雷艇は計画当初は20隻の建造を予定しており、1931年(昭和6年)度の①計画では要求12隻中4隻の建造が認められた。続く1934年(昭和9年)度の②計画では16隻の水雷艇の建造が認められ、当初の予定通り水雷艇20隻がそろう計画になった。軍令部はこの水雷艇に同じ600トン以内で千鳥型を超えた更に過大な要求を行った。つまり速力34ノット(千鳥型は30ノット、以下同)、航続力16ノットで3,000海里(14ノットで3,000海里)、12.7cm砲4門(同3門)魚雷発射管61cm4門(同53cm4門)などである。基本計画番号F47として設計を開始したが友鶴事件の発生により設計を大幅に改めF47Bとして再設計された。当初は条約制限外の600トン以下とする予定だったが計画当初でも公試排水量893トンであり、この時点で基準排水量840トン、公試排水量960トンに増大していた。 本型の4隻を建造中に更に第四艦隊事件が発生した。溶接構造の補強、DS鋼による部分的な補強などを実施することにして工事を再開、残る4隻は主要強度材を全てDS鋼にするよう計画が変更された。1936年(昭和11年)10月から翌年9月までに8隻が竣工、竣工時には公試排水量1,000トンに達したと言われる。 本型は計画では16隻の建造を予定していたが、残りの艇を建造しても工事の遅延などにより無条約時代(1937年以後)の竣工になることが決定したため8隻で建造は打ち切られ、以後このクラスの水雷艇が建造されることはなかった。建造取り止め艦の予定艦名は「初鷹」「蒼鷹」「若鷹」「熊鷹」「山鳥」「水鳥」「海鳥」「駒鳥」とされている。 もし日本海軍がこれら水雷艇の建造を継続していれば、後の松型駆逐艦と同じ大量生産型の駆逐艦のプロトタイプと成り得た、と指摘する声もある。
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計画・建造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 07:07 UTC 版)
八四艦隊案での巡洋艦建造計画(天龍型6隻と7,200トン型軽巡3隻)は、1918年(大正7年)に5,500トン型9隻(球磨型5隻、長良型4隻)に計画変更になった。そのうち最後の1隻は更に計画が変更され試作巡洋艦(夕張)として建造された。最終的には佐世保海軍工廠で建造された が、イギリスの造船所に発注する案もあった。建造は起工から竣工までわずか1年2カ月ほどであり、艦の実績を確認するため特急工事で建造を進めたと言われている。
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計画、建造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/14 22:08 UTC 版)
軍需部の要望として、冷凍品や生糧品の補給と、漁場で直接買い付けた魚をその場で冷凍し供給する艦があった。 そこで昭和14年度(1939年)に小型と中型の冷凍船をそれぞれ1隻建造し、比較検討することとなった。 小型船の方はトロール船の建造経験が深い三菱重工業下関造船所で雑役船として建造され、「冷凍船」に類別された。
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