増備と消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/28 02:48 UTC 版)
先述の文化5年2月の松前奉行による上申書には1,000石積みの似関船10艘の建造を提言しており、また嘉兵衛も同年9月に松前奉行から似関船建造を打診された時は300石積みから400石積み程度では不便として、3,000石積みの大船が必要と返答している。これを受け文化6年には新たに10艘の御用船が建造されたが、この内の下北半島の大畑で建造された桓虎丸(870石積み)・虓虎丸(860石積み)が重装甲・重武装の似関船で、他の江戸で1艘、大坂で7艘建造された船は通常の似関船と考えられる。 幕府により建造された似関船は、実戦に参加することはなく、文化9年に蝦夷地交易が直捌制から場所請負制へと復活し、翌年にゴローニン事件解決で日露関係の緊張が緩和すると、似関船を含む蝦夷地御用船は大部分が払い下げられ、姿を消すことになる。ただしこれ以降も天保14年(1843年)に浦賀奉行所が計画した32挺立ての「廻船造御船」(実行されず)や、嘉永3年(1850年)の南部藩や、江戸時代後期の津軽藩の御座船永徳丸といった似関船が計画・建造された例はある。
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