ティン・パン・アレー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/03 07:05 UTC 版)
座標: 北緯40度44分44秒 西経73度59分22.5秒 / 北緯40.74556度 西経73.989583度


ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)は、もともとはアメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンの28丁目のブロードウェイと6番街に挟まれた一角の呼称である。この場所の音楽出版社や、その音楽を指すこともある。
概要
この地名で呼ばれるあたりは、1890年代後半にブロードウェイのミュージカルの音楽に関係する会社(レコードの普及前であり、当時の音楽に関する主たる商品は楽譜であった。集まっていた音楽関係会社は楽譜出版社、演奏者のエージェントであった。)で楽曲の試演を行っていたため、まるで鍋釜でも叩いているような賑やかな状態だった。このことから、この名前(Tin Pan Alley[1], 直訳すると錫鍋小路、通称ドンチャン横丁)がついた。ポピュラー音楽における作詞家、作曲家と歌手の分業システムを確立し、代表的な作曲家にはジェローム・カーン[2]、コール・ポーター、アーヴィング・バーリンらがいた。商業主義ポップスを、「ティン・パン・アレー系」「ブリル・ビルディング系」[3]などと呼ぶ場合もある。
ジョージ・ガーシュウィンは、15歳頃、ティン・パン・アレーで楽譜を客に試演する仕事をしていた。当時レコードはまだ高価だったため、楽譜を買いに来た客に試演をして聞かせていたのである。
主な作曲家・作詞家
- ジェローム・カーン
- アーヴィング・バーリン
- コール・ポーター
- ハロルド・アーレン
- ジョージ・ガーシュウィン
- ハリー・ウォーレン
- リチャード・A・ホワイティング
- ジャク・イェレン
- ヴィンセント・ユーマンス
- ジョー・ヤング(作詞家)
主な楽曲
- "煙が目にしみる" (ジェローム・カーン)
- "ホワイト・クリスマス" (アーヴィング・バーリン)
- "ビギン・ザ・ビギン" (コール・ポーター)
- "アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド" (アーヴィング・バーリン, 1911)
- ブルー・スカイ(アーヴィング・バーリン)
- オールウェイズ(アーヴィング・バーリン)
- 踊るリッツの夜[4](アーヴィング・バーリン)
- ゴッド・ブレス・アメリカ(アーヴィング・バーリン)
- ソー・イン・ラヴ(コール・ポーター) [5]。
- トゥルー・ラヴ(コール・ポーター)
- ナイト・アンド・デイ(コール・ポーター)
- ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ(コール・ポーター)
- "A Bird in a Gilded Cage" (Harry Von Tilzer, 1900)
- "After the Ball" Charles K. Harris
- "A Bird in a Gilded Cage" (Harry Von Tilzer, 1900)
- "After the Ball " (Charles K. Harrl, 1892)
- "エイント・シー・スウィート" (Jack Yellen& Milton Ager,1927)
- "Alabama Jubilee" (Jack Yellen & George L. Cobb, 1915)
- "All Alone" (Irving Berlin, 1924)
- "At a Georgia Campmeeting" (Kerry Mills, 1897)
- "Baby Face" (Benny Davis & Harry Akst, 1926)
- "Bill Bailey, Won't You Please Come Home" (Huey Cannon, 1902)
- "By the Light of the Silvery Moon" (Gus Edwards & Edward Madden, 1909)
- "Carolina in the Morning" (Gus Kahn & Walter Donaldson, 1922)
関連項目
脚注
ティン・パン・アレー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:19 UTC 版)
「ポピュラー音楽」の記事における「ティン・パン・アレー」の解説
フォスターの時期、つまり19世紀半ばにすでに幅広い活動を行っていた楽譜出版業界は、1880~90年代にはニューヨーク、特にマンハッタンの下町の〈ティン・パン・アレー〉と呼ばれる通りに集中し、音楽を商品化するシステムを確立した。業者が作詞家に具体的な詞の内容にまで注文をつけて作詞させ、作曲家にも細かい指示のもとに作曲させて、その曲を楽譜に印刷して販売し、曲が話題になるように宣伝マンに店先などで歌わせ、その曲が人々に広く歌われれば楽譜が売れて商業的に成功する、という仕組みだった。 この商品化のシステムでは、最初から流行しそうな曲を作詞家作曲家に書かせるための〈プロデュース〉と、それを多くの人に覚えてもらい流行させるための〈プロモーション〉という二つの作業が重要なポイントとなる。プロモーションがうまく行くよう、その曲を人気芸人に歌ってもらい、それに対して謝礼を支払うのを〈ペイオーラ〉と呼んだ。〈ティン・パン・アレー〉は直訳すれば「錫鍋小路」となり、それぞれの会社で試演を行っていたため大変にぎやかだったことからついた名前であるが、のちにポピュラー音楽業界を指すようにもなった。 曲は8小節×4行の32小節が標準で、ティン・パン・アレーの出版社が楽譜を売り、レコード会社はオーケストラ伴奏で録音し、片面1曲ずつのシングル盤として売り出すのが当時の典型的な発表方法だった。このような形の音楽がポピュラー・ソングと呼ばれ、このティン・パン・アレーによって生産される音楽が「メイン・ストリーム」(主流)音楽として幅を利かせ、彼らの確立した生産・販売システムは、その後レコード業界にも踏襲され、1950年代半ばまでアメリカ音楽業界を支えた。この「ポピュラー・ソング」は、最狭義のポピュラー音楽の定義でもある。 こうしたシステムのもと、チャールズ・K・ハリス作の「舞踏会のあとで」(1892)の楽譜は史上はじめてミリオン・セラーを記録し、楽譜出版産業の急成長をうながした。同時期に大衆芸能の主流となったヴォードヴィルでは、人気歌手たちが全米を巡業して、ティン・パン・アレー産の歌を大衆に普及させた。 ティン・パン・アレー流の商業主義路線はアメリカのポピュラー音楽の特徴で、ヨーロッパのような「国民の大多数に共通の文化基盤」が存在しないアメリカでは、自然発生的に何かの音楽が大流行と言うことは大変起こりにくく、楽譜会社・のちにはレコード会社が企画して流行らせる音楽がメインという状況が続いていく。もちろん意図しないところから意図しない曲が大流行することはあり、またティン・パン・アレー側の企画も大外れする場合も多く、常にうまく行っているわけではなかったが、ニューヨークの音楽会社が商業的に流通させるのがアメリカのポピュラー音楽だ、と言う流れはこの頃に確立した。
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