ポピュラー音楽の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 03:09 UTC 版)
「ティン・パン・アレー」も参照 ニューヨークには楽譜出版会社が集まり、パーラーミュージックを背景に利益を得ていたが、1880~90年代に音楽を商品化するノウハウを確立する。この商品化のシステムでは、最初から流行しそうな曲を作詞家作曲家に書かせるための〈プロデュース〉と、それを多くの人に覚えてもらい流行させるための〈プロモーション〉という二つの作業が重要なポイントであった。プロモーションがうまく行くよう、その曲を人気芸人に歌ってもらい、それに対して謝礼を支払うのを〈ペイオーラpayola〉と呼んだ。こうした手口によって1880~90年代に商業活動の基盤を確立したアメリカの楽譜出版業界を〈ティン・パン・アレーTin Pan Alley〉と言う。直訳すれば「錫鍋小路」となり、それぞれの会社で@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}プラッガー[要出典]と呼ばれる人が実演を伴って販売を行っていたため大変にぎやかだったことからついた名前である。後に有名になった歌手もプラッガーをやっていた人も居る。 曲は8小節×4行の32小節が標準で、ティン・パン・アレーの出版社が楽譜を売り、レコード会社はオーケストラ伴奏で録音し、片面1曲ずつのシングル盤として売り出すのが当時の典型的な発表方法だった。このような形の音楽がポピュラー・ソングと呼ばれ、このティン・パン・アレーによって生産される音楽が「メイン・ストリーム」(主流)音楽として幅を利かせた。このようなティン・パン・アレーとポピュラー・ソングの誕生を持って、今日言われるポピュラー音楽が誕生したと言うことができる。 ティン・パン・アレー流の商業主義路線はアメリカのポピュラー音楽の特徴で、ヨーロッパのように国民の大多数に共通の文化基盤が存在しないアメリカでは、自然発生的に何かの音楽が大流行と言うことは大変起こりにくく、楽譜会社・のちにはレコード会社が企画してはやらせる音楽がメインという状況が続いていく。もちろん意図しないところから意図しない曲が大流行することはあり、またティン・パン・アレー側の企画も大外れする場合も多く、常にうまく行っているわけではなかったが、ニューヨークの音楽会社が商業的に流通させるのがアメリカのポピュラー音楽だ、と言う流れはこの頃に確立した。時にはハワイや中南米から植民地型の混交音楽を輸入し、大衆に飽きられないように活力を得るなどのことも行われた。実際、アルゼンチンタンゴの最盛期は1920~30年で、ティン・パン・アレーの最盛期と同じ時期である。 その頃、ミンストレルショーに代わってヴォードヴィルという小さな劇場が都会にできた。ヴォードヴィルは日本語で「寄席」と訳されているが、日本の寄席とは少し違い、音楽はもちろん、サーカスに似た曲芸が行われたり、有名な元野球選手などが出演していたこともあり、日本の樽回し(横になって足で樽を回す曲芸)も出演していた。ドアープライズ(入場のときもらえるおまけ)には、婦人服の型紙や驚くことに石炭一年分などがあった[要出典]。こうしたヴォードヴィルではティン・パン・アレーがつくったポピュラー・ソングが全米で巡業され、メイン・ストリームの音楽を大いにアメリカ中に流行らせた。これらの家族で楽しめる娯楽場をアメリカで提供した一人に、トニー・パスター(en:Tony Pastor。ジャズバンドのトニー・バスターとは別人。トニー・パスタとも表記。)がいる。 ティン・パン・アレーは、1920~30年代に全盛期を迎えた。当時のヒット曲はほとんどすべてニューヨークを本拠地とする一握りの作曲家と作詞家がつくりだしていた。ジョージ・ガーシュウィンとアイラ・ガーシュウイン、リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン、同じくロジャースとロレンス・ハートなど、作曲家と作詞家は多くの場合コンビを組んで活動した。ヴォードヴィルにかわって大衆芸能の王座についたブロードウェー・ミュージカルのほか、ダンス・オーケストラの専属歌手も、ティン・パン・アレーの歌の普及に貢献した。先に挙げたロジャースやガーシュウィンも当然多くのミュージカルをのこしている。
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