1928年から1938年まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 04:14 UTC 版)
「キャサリン・ダナム」の記事における「1928年から1938年まで」の解説
1928年、まだ学部生であったダナムは、リュドミラ・スペランツェワというロシア人ダンサーのもとでバレエを学んでいる。スペランツェワは、興行師のニキータ・バリエフが率いるロシア系フランス人のヴォードヴィル劇団「こうもり座(Le Théâtre de la Chauve-Souris)」とともにアメリカにやって来て、シカゴに落ち着いていた。ダナムは他方でマーク・タービフィルと、シカゴ・オペラのプリマ・バレリーナになったルース・ページにもバレエを習っている。バレエ教師たちを通じて、ダナムはスペイン、インド、ジャワ、バリのダンスにも触れた。 1931年、21歳のダナムは、アメリカで最初期の黒人バレエ団の一つであるバレエ・ネーグル(Ballets Nègres)を結成する。しかし1931年にただ一度の舞台で好評を得たのみで解散。スペランツェワに、バレエよりもモダンダンスに集中するよう勧められたダナムは、1933年に最初のダンス学校を開設し、「ニグロ・ダンス・グループ(Negro Dance Group)」と名付けた。ここでダナムは若い黒人ダンサーたちにアフリカからの遺産について教えた。 1934〜36年、ダナムはシカゴ・オペラのバレエ団にゲスト・アーティストとして出演している。 ルース・ペイジが台本と振付を担当した作品 La Guiablesse(悪魔の女)は、ラフカディオ・ハーンの『フランス領西インド諸島での2年間』に収められたマルティニークの民話に基づくものである。1933年にシカゴで初日を迎え、黒人のキャストとともにページが表題の役柄を演じた。翌年には、ダナムを主軸とし、ニグロ・ダンス・グループの生徒たちとともに再演。しかしダンサーとしてのダナムの活動はここで中断され、カリブ海での人類学調査が始まった。 シカゴ大学で学部課程を修了し、学術研究ではなくダンスを追求することに決めたダナムは、舞踊団を復活。1937年に彼らとニューヨークに向かい、エドナ・ガイが92nd Street YMHAで主催した「黒人ダンスの夕べ」に参加する。プログラム前半では西インド諸島のダンスを、後半ではタリー・ビーティーとともに作品『熱帯の死(Tropic Death)』を上演した。シカゴに戻るとグッドマン劇場とエイブラハム・リンカーン・センターにも出演し、この時にダナムが創作した『ララ・トンガ(Rara Tonga)』と『葉巻を吸う女(Woman with a Cigar)』はよく知られるようになった。エキゾチックな官能性を特徴とする振付で、いずれもダナムのレパートリーの代表作となった。 舞踊団が成功を収めると、ダナムは連邦劇場計画のシカゴ黒人劇場部門のダンス監督に選ばれる。ここでは『走れ子供たち(Run Li'l Chil'lun)』のシカゴ制作版で振付を担当し、グッドマン劇場で上演された。他にも『皇帝ジョーンズ』(ユージン・オニールの戯曲への応答)や『バレルハウス(Barrelhouse)』などいくつかの振付作品を手掛けた 。 この時、ダナムはデザイナーのジョン・プラットと初めて知り合った。後に二人は結婚することになる。彼らは、ダナムのダンス作品 L'Ag'Ya の最初の版を制作し、1938年1月27日にシカゴで、連邦劇場計画の一環として初演した。マルティニークでの調査に基づくこの三部構成の作品は、現地にある闘いの踊りの要素をアメリカ的な舞台作品へと取り入れたものである。
※この「1928年から1938年まで」の解説は、「キャサリン・ダナム」の解説の一部です。
「1928年から1938年まで」を含む「キャサリン・ダナム」の記事については、「キャサリン・ダナム」の概要を参照ください。
- 1928年から1938年までのページへのリンク