青島基地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 01:48 UTC 版)
「東洋艦隊 (ドイツ)」の記事における「青島基地」の解説
詳細は「膠州湾租借地」を参照 ドイツ側の基地用地買収の申し出は拒絶されたが、1897年11月1日に山東省で起きたドイツ人宣教師の殺人事件(曹州教案)は、ディーデリヒスに「ドイツ人宣教師の保護」という上陸の絶好の口実を与えた。11月14日、ディーデリヒスは山東省膠州湾(現・青島)を占拠する。膠州湾の占領と言っても、1898年1月に防護巡洋艦「カイゼリン・アウグスタ」(en:SMS Kaiserin Augusta)が到着して青島駐屯部隊となる海兵大隊(Seebatallion)が上陸するまでは、帝国海軍の支配は比較的緩やかなものだった。 1898年3月6日、ドイツ大使と清朝総督は膠州湾を99年間租借する事を取り決めた独清条約に署名し、この地域の植民地建設が本格的に始まった。それまで貧しい漁村だった青島に、海軍基地と支援施設からなるドイツ帝国海軍の東洋基地が建設された。 1899年になってディーデリヒスは海軍本部の参謀長に転任のためベルリンに戻り、後任に海軍少将ハインリッヒ皇子が着任した。以降、東洋艦隊の司令官は、クルト・フォン・プリットヴィッツ少将、フェリックス・フォン・ベンデマン少将、フリードリヒ・フォン・インゲノール少将、エーリッヒ・ギューラー少将、ギュンター・フォン・クロージク少将、そして最後のマクシミリアン・フォン・シュペー伯爵と続く。この時期の東洋艦隊は、拡充・近代化計画によって近代的艦艇の配備が進んでいく。
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