青島・南洋諸島の占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:39 UTC 版)
「第一次世界大戦下の日本」の記事における「青島・南洋諸島の占領」の解説
詳細は「日独戦争」を参照 1914年(大正3年)11月7日に大日本帝国陸軍とイギリス陸軍の連合軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日 - 11月7日)。 ドイツ領南洋諸島を占領するかについては日本国内でも結論が定まっていなかった。参戦を主導した加藤外相も南洋群島占領はイギリス植民地政府とアメリカ政府を刺激するとして消極的であった。ところが、9月に入り巡洋艦ケーニヒスベルグによる英艦「ペガサス」撃沈、「エムデン」の活躍などドイツ東洋艦隊の活動が活発化したことで、イギリス植民地政府の対日世論は沈静化した。アメリカにおいても、一時はハースト系の『イエロー・ペーパー』を中心として目立った「対日警戒論」も落ち着いてきた。 このような情勢を受け南洋諸島の占領が決定された。ニューギニア、サモアについては、オーストラリア、ニュージーランドによって9月に占領されていた。10月3日から14日にかけて、第一、第二南遣支隊に属する「鞍馬」「浅間」「筑波」「薩摩」「矢矧」「香取」によって南洋諸島のうち赤道以北の島々(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)が占領された。これら島々の領有権については戦後に決定されることが合意されていたが、国民感情的には期待があった。 日本の占領地域の急速な拡大に対する各国からの危惧もあり、イギリスは両国の作戦行動区域の限定について日本へ提案をし、交渉の結果、占領地域を追認する形で赤道以北を日本、赤道以南をイギリスの作戦行動区域とすることが決まった。この結果、軍事的な南進はミクロネシアまでにとどまった。 開戦前に南洋諸島に派遣されていたドイツ東洋艦隊は、パガン島付近で補給艦からの支援を受けた後に、南アメリカ大陸最南端のホーン岬経由で本国へ帰還するため東太平洋へ向かった。
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