山東出兵と満州事変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 12:33 UTC 版)
金融恐慌・昭和恐慌のあおりで慢性的な恐慌に喘いでいた日本では、「満蒙は日本の生命線」などの意見が盛んになっていた。日本の外交路線も幣原喜重郎の対米協調路線から田中義一の強硬路線へ転換されるようになる。1926年には中華民国四川軍によって日本・イギリス船舶が攻撃される万県事件が起き、イギリス軍は中国兵と戦闘を行ったが日本は抗議を行うにとどめ武力は行使しなかった。東方会議の方針によって満鉄付属地の守備隊として旅順に駐留していた日本の関東軍は居留邦人保護のため3回の山東出兵を行い、北洋軍閥の奉天派であった張作霖を抱き込む事態に進展した。国民革命軍は北伐を再開したが1928年に済南事件が起ったため、山東を回避して北京を目指した。北京政府が陥落し、張作霖の脱走行為を見限った関東軍は奉天で張作霖を爆死させる事件を起こした。この「満州某重大事件」の責任問題を巡って田中義一内閣は昭和天皇の不信を買って総辞職、幣原外交が再開されたがロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って軍部の台頭が一段と顕著になっていく。張作霖の後を継いだ息子の張学良は日本への恨みなどから国民革命軍に合流したため北伐は完了し、国民党による南京国民政府が中国大陸を一応統一したものの新たな軍閥グループが複数内在する脆弱なものであり、主席に就任した蔣介石は直ちに軍閥の弱体化に取り掛かった。一方で、中国共産党は農村部を中心に基盤を固め、毛沢東を筆頭に瑞金で中華ソビエト共和国の樹立にこぎつけていた。 1931年、若槻内閣の不拡大方針を無視した満州事変が勃発した。1932年の日満議定書によって中国東北部に日本の支援のもと溥儀が「満州国」を建国した。米英は不戦条約を抵当に反発を強め、国際連盟は中華民国側の提訴を受けてリットン調査団を満州に派遣、その報告を踏まえた上で「満州国建国は満州族の自発的な民族自決運動である」とする日本側の見解に反するものが多数を占めた。撤兵勧告を不服とした松岡洋右はその場を退場、日本は連盟の脱退を通告した。 滝川事件・天皇機関説事件に対して国体明徴運動が発生すると日本政府は1935年に国体明徴声明を発表、陸軍皇道派の青年将校による二・二六事件が発生した。首謀者の北一輝らは死刑になり、統制派が主導権を握るようになった。こうしてワシントン体制が崩壊していった。
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