さんとう‐きょうざん〔‐キヤウザン〕【山東京山】
山東京山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/28 08:47 UTC 版)
山東 京山(さんとう きょうざん、明和6年6月15日(1769年7月18日)[1] - 安政5年9月24日(1858年10月30日)[1])は、江戸時代後期の戯作者。本名は岩瀬 百樹(いわせ ももき)[1]。字は鉄梅[1]。号は覧山・涼仙[1]。山東京伝は兄。

略歴
江戸深川の質屋の次男として生まれる[1][2]。幼時に漢学や書画を学び[1]、寛政3年(1791年)に外伯母の鵜飼氏の養子となり、助之丞と名乗る[1]。その後、篠山藩などに仕えるが、寛政11年(1799年)に致仕する[1][3]。同年、京伝の作品に「京山」の名で讃詞を出したのが文芸活動の始まりである[1]。文化元年(1804)頃、佐野東洲の婿養子となるが、文化3年(1806年)頃に離縁[1]、田村養庵の娘と再婚した[1]。
文化4年(1807年)に『復讐妹背山物語』を刊行した後、京橋に移り住み、それ以後は篆刻と合巻・読本執筆を業とした[1]。兄の京伝が死ぬと、兄の子どもの後見役となって京伝の店を繁栄させ、石州流の茶の湯の師匠も務めるなどして、膨大な財を成した[1]。
天保7年(1836年)5月から9月まで越後に滞在し、鈴木牧之『北越雪譜』の刊行に尽力した[1]。「京山人百樹」名義で同書の刪定(添削・修正)にあたった。同作の出版に際して、京伝の死後に感情的にもつれていた曲亭馬琴との関係がさらに悪化した[1]。
天保9年(1838年)剃髪して涼仙と名乗り、晩年まで積極的に執筆活動を行った[1]。1858年(安政5年)、江戸で多くの死者を出したコレラに感染して死去[4]。90歳。
作品


160作品以上の作品を手がけ、その著述活動は前期・後期に分けられる[1]。前期は文化年間から文政10年頃までで、京伝の模倣から演劇を素材とした作品、そして御家騒動物や隠謀物の作品へと展開していく[1]。後期は文政10年から最晩年までで、長編合巻を中心に手がけた[1]。
京山の作風は、複雑な筋書きや奇抜な趣向ではなく、平易な会話を交えた文章で気質物や演劇の趣向を借用し、家庭的・世間的な教訓を描くものである。娘が武家奉公をしていたため、女性道徳を強調する傾向がある[1]。
『復讐妹背山物語』(文化4年(1807年)刊)や『昔模様娘評判記』(天保6年(1835年)刊)が代表作である[5][6]。ほかに『大晦日曙草子』(天保10年(1839年))や『朧月猫草帋』(天保13年(1842年) - 嘉永2年(1849年)[注釈 1])、『教草女房形気』(弘化3年(1846年))などがある。また、『歴世女装考』(弘化4年(1847年)成立)などの随筆は、近世風俗考証の上で貴重な史料となっている[1]。

脚注
注釈
- ^ 『朧月猫草帋 7編28巻』. NCID BB04697476また、2013年に金子信久訳で復刻『おこまの大冒険〜朧月猫の草紙〜』 ISBN 978-4756244291パイインターナショナル発行
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第3巻』岩波書店、1984年4月、129-130頁。
- ^ Inc, NetAdvance Inc NetAdvance. “山東京伝|国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典|ジャパンナレッジ”. JapanKnowledge. 2023年9月23日閲覧。
- ^ 津田眞弓『山東京山年譜稿』ぺりかん社、2006年、16,23頁。 ISBN 4831510661。
- ^ 池田正一郎『日本災変通志』新人物往来社、2004年12月15日、694頁。 ISBN 4-404-03190-4。
- ^ デジタル大辞泉の解説『山東京山』 - コトバンク参照
- ^ 高木元『山東京山伝奇小説集(江戸怪異綺想文芸大系)』国書刊行会、2003年 ISBN 978-4336042743「復讐妹背山物語」「昔模様娘評判記」などが収録
外部リンク
山東京山(1769年 - 1858年)
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「曲亭馬琴」の記事における「山東京山(1769年 - 1858年)」の解説
京伝の弟であるが、馬琴との関係は険悪であった。馬琴は、京山が京伝死後に寡婦の百合を狂死に追いやり、家業の薬屋を乗っ取ったと見て非常に嫌悪している。京伝とその妻百合の死後の文政2年(1819年)、馬琴は京伝の評伝として『伊波伝毛乃記(いわでもの記)』を著しているが、この書の眼目は京山への非難にあると考えられる。一方の京山も、1830年に鈴木牧之に送った『鳴蛙秘抄』などで、馬琴が京伝から多大な恩を受けながら葬式にも来ない(馬琴側は出席したとしている)などとして「忘恩の徒」と非難している。
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