加藤曳尾庵とは? わかりやすく解説

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加藤曳尾庵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/03 22:42 UTC 版)

加藤 曳尾庵(かとう えびあん/えいびあん、宝暦13年(1763年)- 没年不詳[1])は、江戸時代後期の文人医師俳諧宗匠。幼名は平吉、名は玄亀、南竹軒とも号した。

人物

宝暦13年、水戸藩士・沼田直充の三男として、水戸に生まれる[2][3]。20歳を過ぎて両親と共に江戸へ出府し、小石川の水戸藩上屋敷に入る[2]天明8年(1788年)、26歳で水戸藩を致仕し、諸国へと遊歴[2][3]

寛政8年(1796年)、再び江戸に戻る[3]。時期は明らかでないが、幕府奥医師の山本永春院に医術を学んでいたところ、文化2年(1805年)、下谷の医師・加藤玄悦の看板を買い、これより加藤姓を称した[3][4]。 江戸においては、大田南畝(蜀山人)が企画した、文人らによる古物・古画の鑑賞会である「雲茶会」の一員となり、南畝、山東京伝山東京山谷文晁らと交友を重ね、また曲亭馬琴屋代弘賢、古筆了意らとも交流した[3][5][6]。文化12年(1815年)2月には、大黒屋光太夫に面会して終日ロシアの話を聞いたという[6]

文化13年(1816年)、田原藩三宅侯の抱医師となり[3][7]、同藩の渡辺崋山とも交友[8]文政2年(1819年)、田原藩を致仕し、その後は、板橋宿において手習いの師匠のかたわら医業を営んだ[3][8]

著書として、江戸の世相風俗について記した日記風の随筆『我衣(わがころも)』19巻(文化8年/1811年成立)がある[3][9]

脚注

  1. ^ 『我衣』とその著者」『読史余録』117頁は、文政12年(1829年)とする。
  2. ^ a b c 『我衣』とその著者」112頁
  3. ^ a b c d e f g h 『コンサイス日本人名事典』338頁
  4. ^ 「『我衣』とその著者」113頁
  5. ^ 『文人世界の光芒と古都奈良』17頁
  6. ^ a b 「『我衣』とその著者」114頁
  7. ^ 「『我衣』とその著者」115-116頁
  8. ^ a b 「『我衣』とその著者」116頁
  9. ^ 「『我衣』とその著者」117頁

参考文献




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