提案内示と講和会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 00:13 UTC 版)
「人種的差別撤廃提案」の記事における「提案内示と講和会議」の解説
1919年(大正8年)1月14日、パリに到着した日本全権団は人種差別撤廃提案成立のため、各国と交渉を開始した。1月26日に珍田捨巳駐英大使はアメリカのロバート・ランシング国務長官と面会し、ランシングが提案に肯定的であるという印象を得た。2月4日にはウィルソンの友人であるエドワード・ハウス名誉大佐に、連盟規約に挿入するべき文章として、「甲案」と「乙案」の二つの案を内示した。ハウスはこのうち乙案に賛意を示し、ウィルソンも賛成するであろうと述べた。翌日ハウスとウィルソンが会談し、日本側に人種差別撤廃提案を連盟規約に挿入することを大統領提案として提出するつもりであると伝達した。「最大の障害」であると見られていたアメリカとの調整が成功し、日本側は提案成立に大きな自信を得た。 ところが、三大国の一つであるイギリスとの交渉は難航した。イギリス帝国内の自治領であるオーストラリア、カナダがこの提案に強く反対しており、日本が直接交渉を行っても妥協は成立しなかった。オーストラリアは白豪主義体制を国是としていただけでなく、労働問題が目下の課題となっていた。さらに選挙が目前に迫っていたこともあり、この提案は受け入れがたいものであった。イギリス全権のロバート・セシル元封鎖相、アーサー・バルフォア外相は個人的には日本の立場に賛成するとしたものの、問題が重大であり、人種差別撤廃という問題を連盟規約で扱うのは妥当ではないと回答した。バルフォアは説得に訪れたハウスに対し、「ある特定の国において、人々の平等というのはありえるが、中央アフリカの人間がヨーロッパの人間と平等だとは思わない」と述べている。 講和会議において日本代表は自国の利害が絡む山東問題・南洋諸島問題以外ほとんど積極的な発言を行わず、「サイレント・パートナー」と揶揄された。ウィルソン大統領の悲願であった国際連盟設立に関しても、内田康哉外相が「本件具体的案ノ議定ハ成ルヘク之ヲ延期セシメルニ努メ」ると言ったように消極的態度に終始し、各国の失望を買った。特に1月22日の五大国会議で牧野が連盟設立に関して意見を留保したことはウィルソンやデビッド・ロイド・ジョージイギリス首相の不興を買った。提案の採択は極めて難しいと見られていたが、日本側は「正否はともかく、この際本問題に関する我主張を鮮明することは将来のため極めて緊要」という判断から、提案を行うことになった。
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