中華革命党に加入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/19 14:29 UTC 版)
1915年、袁世凱が帝政を意図していたのに対し、林資鏗は中華革命党に加入した。翌1916年には台湾の田地数百甲を売却し、銀十万両の軍資金を得て、漳州と泉州から人士を募って閩南革命軍を創設して、討袁護法戦争に参加した。閩南革命軍は後日国民革命軍の源流の一つとなった。 1917年9月、孫文は広州に中華民国軍政府を設立し、海陸軍大元帥に就任し、護法運動を推進した。1918年1月6日、孫文は林資鏗を閩南軍司令に任命し、軍政府陸軍少将の位階を授けた。しかし4月に安徽派の軍閥盧永祥の派遣した福建督軍李厚基に察知され、廈門鎮守使唐国謨に逮捕された。しかし工部局と各国の領事によって釈放された。その後、林資鏗は部隊を率いて福建省中部を転戦し、永春・仙游、徳化、永安など7県を手中に収めた。 その後孫文の命で陳炯明が福建省南部に入り、林資鏗は陳炯明の指揮下に入り、閩南革命軍は粤軍第二預備隊と改称された。しかし陳炯明から十分な資金を与えられず、孫文に直訴したこともある。
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