貴州内乱を招くとは? わかりやすく解説

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貴州内乱を招く

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/03 15:47 UTC 版)

王伯群」の記事における「貴州内乱を招く」の解説

その後王伯群貴州省採鉱関連業務関与し、裕黔公司採鉱会社)で董事、群益社(省内すべての採鉱関わる団体)で理事長をつとめる。1918年民国7年11月貴州省長公代表として広州に赴き、孫文孫中山)の護法運動支援した翌年には中華革命党に加入し、劉顕世代理人として上海常駐している。 同年3月王伯群貴州省代表として米国華僑会社と、貴陽経由する鉄路重慶柳州間)の改修に関する借款契約結んだ。ところが、契約企業周辺地域の開発自由にさせ、貴州省側の返還条件厳し契約であるとして、貴州督軍劉顕世や「旧派」(北京政府支持派旧軍政財界実力者多かった)の反発を受ける。これは、王伯群王文華兄弟はじめとする新派」(孫文支持派新軍若手軍人となっていた)に対す牽制でもあった。その後旧派新派権力闘争抜き差しならないものとなっていく。 まず1919年民国8年)には、旧派の省政務庁長・陳廷策が新派テロ遭って負傷し同じく旧派の省財政庁長・張協陸が新派追及受けて自殺追い込まれた(民八事変)。これにより、王兄弟貴州省内における権力拡大していく。そして1920年民国9年11月王文華旧派掃討クーデター発動し劉顕世下野追い込んだ(民九事変)。しかし、叔父下野追い込んだことや、クーデターの際の旧派要人殺戮余りにも苛烈であったために、王文華批判恐れて直ち貴州督軍となることはできず、上海王伯群の下にいったん退避している。 そして1921年民国10年3月王文華北京政府支持する部下袁祖銘暗殺されてしまった。以後貴州省軍人たちによる激し主導権争い展開され、弟を失った王伯群はもはや貴州への介入不可となってしまうのである1922年民国11年3月広東軍政府から貴州省長に任命されたが、袁の妨害遭い実際に着任できなかった。同年王伯群中国国民党加入している。

※この「貴州内乱を招く」の解説は、「王伯群」の解説の一部です。
「貴州内乱を招く」を含む「王伯群」の記事については、「王伯群」の概要を参照ください。

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