貴州旧軍の指導者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/06/28 08:19 UTC 版)
父の劉官礼は興義県を拠点としていた団練の統領である。若き日の劉顕世も父の団練に参加し、広西省の会党と戦うなどしている。また、劉父子は地元の興義県で教育事業に取り組み、省内に幅広い政治的人脈を形成した。 1911年(宣統3年)11月3日、貴州の新建陸軍(新軍)が中心となって、武昌起義に呼応して反清の挙兵をなす。翌4日に大漢貴州軍政府が樹立された。この時、劉顕世は団練主体の旧軍を率い清朝側に与していたが、立憲派の枢密院副院長任可澄らの手引きもあって、貴陽入りしてそのまま貴州軍政府に加入している。そして枢密院枢密員兼軍事股主任、貴州中西両路統領という軍事的要職に就くことができた。 その後、劉顕世ら貴州旧軍は任可澄らの貴州立憲派と連合を形成し、枢密院院長張百麟らの貴州革命派と貴州都督楊藎誠らの貴州新軍の連合との間で対立していく。1912年(民国元年)3月、劉・任らは、雲南軍政府の唐継尭率いる滇軍を貴陽に迎え入れ、対立勢力をことごとく駆逐、粛清した。唐が貴州都督に就任すると、劉は貴州国民軍総司令に任命された。唐と劉は、1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)では袁世凱を支持している。同年11月、唐が雲南都督に就任すると、劉が貴州護軍使として貴州の統治を引き継いだ。劉は以後も、袁に忠実な姿勢を保っている。
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