貴州統治と四川介入の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/03 08:30 UTC 版)
その翌月、北京政府の財政的支援も得た袁祖銘は、武昌で定黔軍を組織して総指揮を自称する。1922年(民国11年)4月、袁は南方政府派の黔軍総司令盧燾を駆逐して、貴陽を占領した。これにより、袁は黔軍総司令を自称した。しかし、雲南の唐継尭と次第に対立し、1923年(民国12年)4月、唐継虞(唐継尭の弟)率いる滇軍(雲南軍)に貴陽から追われてしまった。その後の袁は、四川省で、川軍(四川軍)と勢力圏争いを繰り広げた。1924年(民国13年)3月、北京政府から川黔辺防督弁兼陸軍第34師師長に任命される。 その間に袁祖銘は唐継尭と和睦し、1925年(民国14年)1月に貴州督弁として復帰した。しかし、袁はその後も、四川省での省内内戦に関与し続ける。貴州の省政は、部下の王天培、彭漢章、周西成に委ねられた。同年6月、袁は、川軍指揮官劉湘らと組んで、四川省統一を狙う川軍の有力指導者楊森を撃破した。ところが、すぐに劉湘と楊森は和解し、今度は袁が攻撃対象とされてしまう。翌年5月、袁は川軍に敗北し、湘西(湖南省西部)へ逃亡した。
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