粤軍での台頭とは? わかりやすく解説

粤軍での台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 14:51 UTC 版)

張発奎」の記事における「粤軍での台頭」の解説

農民家庭生まれる。初め学問志したが、途中で断念し染織技術学んだ。しかし、辛亥革命勃発と共に張発奎広東新軍加入している。以後順調に昇進し1923年民国12年1月李済深率いる粤軍第1師の独立団団長に就任した東征陳炯明討伐)などを経て1925年民国14年8月国民革命軍第4軍独立旅旅長に、冬には第12師長昇進した1926年民国15年)からの中国国民党北伐にも参戦する湖北省呉佩孚率い直隷派の軍を撃破する上で張発奎勇戦により貢献した。この時の国民革命軍第4軍は、「軍」と呼ばれる栄誉受けている。さらに江西省での掃討従事した後、第12師は第4軍拡充され張発奎軍長昇進した1927年民国16年)、蒋介石の上クーデターにより、上海武漢国民政府分裂した。しかし張発奎率い第4軍は、唐生智率いる第4集団軍属し、第1縦隊となってさらに北伐継続し河南省に入る。同じく閿郷(現霊宝市)から入省した馮玉祥率い第2集団軍と協力して上蔡県于珍率い安国軍(中国語版第10軍撃破その後北東向かい沙河中国語版)の天然要害阻まれ西華県逍遥鎮(中国語版)を陥落させるなど快進撃続け6月2日開封占領6月10日行われた鄭州会議中国語版)の結果河南省馮玉祥管轄となり、張発奎武漢凱旋した

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粤軍での台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 21:57 UTC 版)

余漢謀」の記事における「粤軍での台頭」の解説

広東陸軍小学第5期武昌陸軍第2予備学校で学ぶ。1916年民国5年)、中華革命党に加入した。1919年民国8年)春、保定陸軍軍官学校第6期歩兵科卒業した当初北京政府軍に加入したものの、翌1920年民国9年)に南下して粤軍に転じ、第1師に所属している。 1925年民国14年)、国民革命軍第4軍11師第31団団長に任ぜられる。翌年、高警備司令兼任した1927年民国16年)、第11師副師長昇進し1928年民国17年春には同師師長となっている。1929年民国18年)春、広東編遣区第1旅旅長となり、同年夏には第59師長昇格したこの間に、蔣桂戦争蔣介石派として戦っている。 1931年民国20年)、胡漢民軟禁端を発して、反蔣の西南派が広州国民政府組織する余漢謀西南派に加わり陸軍第1軍軍長に任ぜられた。同年12月満州事変勃発受けて大同団結により、南京広州の両派は再合同し、余は中国国民党第4期中央執行委員選出された(後の第5期第6期でも同様)。翌1932年民国21年1月国民党中央執行委員会西南執行部委員に任ぜられたほか、同年中に贛粤閩辺区第1路軍司令官に任ぜられ、紅軍掃討従事する翌年以降陸軍第1軍軍政訓処主任や駐贛第6綏靖主任兼ねた

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粤軍での台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/19 09:23 UTC 版)

繆培南」の記事における「粤軍での台頭」の解説

清末学問分野順調に進学していたが、1912年民国元年)に広東黄埔陸軍小学第6期入学した同期には、葉挺張発奎李漢魂がいる。1914年民国3年)冬に卒業しとともに武昌陸軍第2予備学堂進学した1916年民国5年)冬、卒業し翌年保定陸軍軍官学校入り第6期歩兵科で学ぶ。 1918年民国7年)に卒業し当初山東省北京政府軍務就いた。しかし1920年民国9年10月孫文孫中山)が樹立した広州軍政府転じるために広東省に戻る。翌年、繆は粤軍第1師に配属されまた、孫が非常大総統となった際に設立され警衛団に選抜されている。以後陳炯明討伐東征等で活躍し1925年民国14年9月国民革命軍第4軍(粤軍第1師を改編したもの軍部上校副官に任ぜられた。11月には、第4軍12副官となっている。 1926年民国15年5月国民革命軍第4軍12師第35団団長に任ぜられ、北伐参加した翌年1月軍功により第12師副師長昇進し師長任務代理している。同年7月には第12師長正式に任命され9月には第4軍軍長兼第12師長昇進した。そして12月には、第4軍軍長任命され広州政治分会臨時軍事委員会主席団構成員兼ねている1927年民国16年11月張発奎李済深から広東統治権奪おうとしてクーデター起こすと、繆は張に加担した。しかし、蒋介石支援を受け、支持する陳銘枢らの部隊に繆は大敗喫してしまう。結局、繆は蒋に事実上降伏し、再び北伐参加した

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