粤軍での台頭
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農民の家庭に生まれる。初めは学問を志したが、途中で断念し、染織技術を学んだ。しかし、辛亥革命勃発と共に、張発奎は広東の新軍に加入している。以後、順調に昇進し、1923年(民国12年)1月、李済深率いる粤軍第1師の独立団団長に就任した。東征(陳炯明討伐)などを経て、1925年(民国14年)8月、国民革命軍第4軍独立旅旅長に、冬には第12師師長に昇進した。 1926年(民国15年)からの中国国民党の北伐にも参戦する。湖北省で呉佩孚率いる直隷派の軍を撃破する上で、張発奎も勇戦により貢献した。この時の国民革命軍第4軍は、「鉄軍」と呼ばれる栄誉を受けている。さらに江西省での掃討に従事した後、第12師は第4軍に拡充され、張発奎は軍長に昇進した。 1927年(民国16年)、蒋介石の上海クーデターにより、上海と武漢で国民政府が分裂した。しかし張発奎率いる第4軍は、唐生智率いる第4集団軍に属し、第1縦隊となってさらに北伐を継続し、河南省に入る。同じく閿郷(現霊宝市)から入省した馮玉祥率いる第2集団軍と協力して上蔡県で于珍率いる安国軍(中国語版)第10軍を撃破、その後北東に向かい沙河(中国語版)の天然の要害に阻まれた西華県逍遥鎮(中国語版)を陥落させるなど快進撃を続け、6月2日に開封を占領。6月10日に行われた鄭州会議(中国語版)の結果、河南省は馮玉祥の管轄となり、張発奎は武漢に凱旋した。
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粤軍での台頭
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広東陸軍小学第5期、武昌陸軍第2予備学校で学ぶ。1916年(民国5年)、中華革命党に加入した。1919年(民国8年)春、保定陸軍軍官学校第6期歩兵科を卒業した。当初は北京政府軍に加入したものの、翌1920年(民国9年)に南下して粤軍に転じ、第1師に所属している。 1925年(民国14年)、国民革命軍第4軍第11師第31団団長に任ぜられる。翌年、高雷警備司令も兼任した。1927年(民国16年)、第11師副師長に昇進し、1928年(民国17年)春には同師師長となっている。1929年(民国18年)春、広東編遣区第1旅旅長となり、同年夏には第59師師長に昇格した。この間に、蔣桂戦争を蔣介石派として戦っている。 1931年(民国20年)、胡漢民軟禁に端を発して、反蔣の西南派が広州国民政府を組織する。余漢謀も西南派に加わり、陸軍第1軍軍長に任ぜられた。同年12月、満州事変勃発を受けての大同団結により、南京・広州の両派は再合同し、余は中国国民党第4期中央執行委員に選出された(後の第5期、第6期でも同様)。翌1932年(民国21年)1月、国民党中央執行委員会西南執行部委員に任ぜられたほか、同年中に贛粤閩辺区第1路軍司令官に任ぜられ、紅軍掃討に従事する。翌年以降、陸軍第1軍軍政訓処主任や駐贛第6綏靖主任を兼ねた。
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粤軍での台頭
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清末は学問分野で順調に進学していたが、1912年(民国元年)に広東(黄埔)陸軍小学第6期に入学した。同期には、葉挺、張発奎、李漢魂がいる。1914年(民国3年)冬に卒業し、葉・李らとともに武昌陸軍第2予備学堂に進学した。1916年(民国5年)冬、卒業し、翌年に保定陸軍軍官学校に入り、第6期歩兵科で学ぶ。 1918年(民国7年)に卒業し、当初は山東省で北京政府の軍務に就いた。しかし1920年(民国9年)10月、孫文(孫中山)が樹立した広州軍政府に転じるために広東省に戻る。翌年、繆は粤軍第1師に配属され、また、孫が非常大総統となった際に設立された警衛団に選抜されている。以後、陳炯明討伐の東征等で活躍し、1925年(民国14年)9月、国民革命軍第4軍(粤軍第1師を改編したもの)軍部上校副官に任ぜられた。11月には、第4軍第12師副官長となっている。 1926年(民国15年)5月、国民革命軍第4軍第12師第35団団長に任ぜられ、北伐に参加した。翌年1月、軍功により第12師副師長に昇進し、師長の任務を代理している。同年7月には第12師師長に正式に任命され、9月には第4軍副軍長兼第12師師長に昇進した。そして12月には、第4軍軍長に任命され、広州政治分会臨時軍事委員会主席団構成員も兼ねている。1927年(民国16年)11月、張発奎が李済深から広東の統治権を奪おうとしてクーデターを起こすと、繆は張に加担した。しかし、李は蒋介石の支援を受け、李を支持する陳銘枢らの部隊に繆は大敗を喫してしまう。結局、繆は蒋に事実上降伏し、再び北伐に参加した。
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