護国戦争、護法戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:10 UTC 版)
1915年(民国4年)、李烈鈞は中華革命党に加入する。同年12月、孫文の指示により雲南省で西南の都督を取り込む活動を開始しようと、ベトナム経由で帰国する。ちょうどこの時、雲南将軍唐継尭と前雲南都督蔡鍔が反袁世凱の護国戦争を発動する直前であったため、李烈鈞もこれに参与した。そして12月25日、李烈鈞は護国軍第2軍総司令(第1軍総司令は蔡鍔、第3軍総司令は唐継尭)に任命され、広西省方面へ進軍した。 1916年(民国5年)3月15日に、広西将軍陸栄廷が独立を宣言して護国軍側に寝返る。そのため、李烈鈞はこれと協力して広東省への進攻を開始する。広東将軍竜済光は李烈鈞と陸栄廷に挟撃され、8月には敗北し、海南島へ逃亡した。しかし袁世凱の死などもあって李烈鈞の軍は存在意義を失う。竜済光の討伐完了後に、李烈鈞は単身で香港や上海へ退いた。 1917年(民国6年)8月から9月にかけて、孫文が広州で中華民国軍政府を樹立すると、李烈鈞は大元帥府総参謀長に任命される。10月より護法戦争が開始された。1919年(民国8年)10月に孫文が上海で中華革命党を中国国民党に改組すると、李烈鈞は代理大元帥に任命され、広州の事務を管轄した。1920年(民国9年)12月、孫文が北伐のための大本営を設立すると、李烈鈞は大本営総参謀長に任命された。
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