護国戦争での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/03 15:47 UTC 版)
1905年(光緒31年)、母方の叔父である劉顕世の資金援助を受けて日本へ留学し、後に中央大学に入学して政治・経済を学んだ。1910年(宣統2年)に卒業し、大学院でさらに研究を続ける。日本滞在中に中国同盟会に加入した。 辛亥革命が勃発すると王伯群は帰国し、まず北京に赴いて章炳麟(章太炎)、程徳全、張謇らが組織した中華民国聯合会に加入する。その後、統一党に加入して幹事となり、貴州省での支部組織に奔走した。1912年(民国元年)3月、雲南軍の唐継尭が貴州を占領すると、劉顕世とともにこれを支持している。王は共和党、進歩党でも幹事をつとめた。1914年(民国3年)、貴州代表として約法会議に参加し、中華民国約法制定に関与している。 1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位を目論むようになると、王伯群は同じく貴州の進歩党員である戴戡とともにこれに反発する。そして梁啓超・蔡鍔らと天津で秘密裏に会談し、反袁挙兵の計画を実行する。同年12月、王伯群は蔡鍔とともに雲南へ脱出し、さらに雲南将軍唐継尭との謀議に参加した。こうして12月末に、蔡鍔・唐継尭・梁啓超らが護国軍を組織して反袁世凱の電報を発し、護国戦争が勃発する。さらに王伯群は、弟で貴州軍の有力指導者である王文華に、蜂起に消極的な貴州護軍使・劉顕世への圧力をかけさせ、後に劉も護国軍側に付かせた。その後も王伯群は護国軍の幹部の1人として、翌年6月の護国軍勝利まで指導的役割を果たしている。
※この「護国戦争での活動」の解説は、「王伯群」の解説の一部です。
「護国戦争での活動」を含む「王伯群」の記事については、「王伯群」の概要を参照ください。
- 護国戦争での活動のページへのリンク