護国戦争への参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/03 08:57 UTC 版)
1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位を目論むようになると、任可澄は初期は袁を支持する動きを見せた。しかしまもなく唐継尭とともに、これを阻止する方向に転じる。まず任は、個人名義で袁に電報を送り、皇帝即位を諫止しようとした。その後、蔡鍔が雲南入りし、12月25日、蔡、唐らが護国戦争の発動を宣言すると、任もその宣言に名を列ねた。 翌1916年(民国5年)3月、護国戦争で追い詰められた袁世凱は皇帝即位を取り消し、6月に死去した。7月、任可澄は黎元洪から雲南省長に任命された。しかし任が当初は袁を支持していたことを理由として、滇軍軍人が連名でこれを拒否した。そのため、任はやむなく職を辞し、貴州へ引き返した。 これ以降も、貴州省内の各派閥から任可澄を擁立する動きがあったが、任はもはや政治闘争に巻き込まれることを望まなかった。貴州通志局を主管して、『貴州通志』を編纂することに専念した。1926年(民国15年)6月、北京政府の杜錫珪内閣により教育総長に招聘され、これを半年間つとめている。国民政府時代の1935年(民国24年)8月に全国禁煙委員会委員、1937年(民国26年)に雲貴監察使もそれぞれつとめた。 1946年(民国35年)、任可澄は昆明で脳溢血により死去した。享年68。
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