護国戦争での活躍
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1904年(光緒30年)、日本へ軍事留学する。東京振武学校を経て、陸軍士官学校第6期騎兵科で学んだ。1908年(光緒34年)、卒業した。帰国後は雲南陸軍講武堂の兵学教官に就任した。顧品珍は、革命派の思想に傾倒し、中国同盟会にも加入している。 1911年(宣統3年)10月30日、蔡鍔・唐継尭ら新軍軍人を中心とする雲南の革命派が蜂起し、雲南軍政府を樹立した。顧品珍もこれに参加し、参謀部第3部長に任命された。まもなく、謝汝翼率いる第1梯団に属し、四川省の革命派支援のために遠征した。1913年(民国2年)秋、雲南陸軍第2師師長代理に、翌年3月、第1師師長に就任した。 1915年(民国4年)12月25日、蔡鍔・唐継尭らが護国軍を組織して護国戦争(第三革命)を開始する。顧品珍は蔡率いる護国軍第1軍第3梯団団長として四川省に出征した。このとき、顧は蔡を良く補佐し、勇敢な戦いぶりで軍功をあげた。1916年(民国5年)6月6日の袁世凱死後、護国軍の改組に伴い、顧品珍は駐川滇軍第6師師長に異動する。同年12月、陸軍中将に昇進した。
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護国戦争での活躍
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「王文華 (民国)」の記事における「護国戦争での活躍」の解説
1915年(民国4年)12月、雲南の蔡鍔・唐継尭らが護国戦争が勃発する。一方の劉顕世は、袁世凱に反旗を翻すことを望まず、唐からの決別に動こうとした。しかし王文華は、貴州巡按使戴戡とともに、劉を翻意させる軍事的・政治的圧力をかけた。このため、1916年(民国5年)1月27日に、劉は独立宣言(反袁世凱宣言)を発するに至った。王は、護国第1軍左翼東路司令に任命され、精鋭化した黔軍3個団を率いて四川・湖南省境へ出撃する。王率いる黔軍は、北京政府軍部隊を各地で撃破する軍功をあげ、護国軍勝利に貢献した。 袁世凱死後、王文華は黔軍第1師師長に就任し、四川省へ出征して一時は四川軍務会弁もつとめた。その後、四川省において、川軍(四川軍)指揮官たちとの抗争に巻き込まれていく。一方で、1917年(民国6年)8月には、王自ら密かに上海に赴き、孫文と会見して中華革命党にも加入した。王らの孫文支持派若手軍人たちは、貴州省内では「新派」と呼ばれ、北京政府(後には唐継尭)支持派で旧軍・政財界実力者が多い劉顕世らの「旧派」と次第に対立するようになる。
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