護国戦争での台頭、失脚とは? わかりやすく解説

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護国戦争での台頭、失脚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/06/28 08:19 UTC 版)

劉顕世」の記事における「護国戦争での台頭、失脚」の解説

1915年民国4年12月蔡鍔唐継尭袁世凱皇帝即位阻止するため、雲南護国戦争発動する劉顕世当初袁世凱皇帝即位支持し、唐と袂を分かとうとした。ところが、護国軍を支持する黔軍第1団団長の王文華劉顕世外甥)や貴州民政戴戡から、反袁に舵を切るようにとの突き上げ起きる。 結局劉顕世は、1916年民国5年1月27日護国支持へと転向して独立宣言し王文華率いる黔軍を四川省送り込んだ。黔軍は護国戦争活躍し、袁は皇帝即位取り消して間もなく死去したその後北京政府黎元洪により、劉は貴州督軍兼省長に任命された。 護法戦争でも、劉顕世南方政府重鎮1人目されることになる。しかし、元来政治姿勢北京政府寄りであったため、特に孫文との関係は宜しくなく、唐継尭追随する政治行動目立った。劉は貴州省内の軍拡進めたが、その結果優勢な軍事力を握るようになった王文華若手軍人派閥(「新派」)と、劉ら旧世代軍人政治家派閥(「旧派」)との間で対立深まっていく。 1920年民国9年9月王文華遠征先の四川敗退すると、同年11月旧派粛清クーデター発動した(「民九事変」)。劉は多く腹心新派軍人たち殺され下野余儀なくされた。しかし王も、部下袁祖銘との対立の末に暗殺され貴州は再び混沌とした情勢陥る

※この「護国戦争での台頭、失脚」の解説は、「劉顕世」の解説の一部です。
「護国戦争での台頭、失脚」を含む「劉顕世」の記事については、「劉顕世」の概要を参照ください。

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