護国戦争での逡巡、失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/03 08:51 UTC 版)
ところが、護国戦争が勃発すると、朱瑞はまたしても態度表明を引き延ばす。ようやく1916年(民国5年)3月に、馮国璋ら5将軍と共に袁世凱に帝制取消しを促す秘密電報を打った。その後の更なる事態の進展の中でも、朱はいずれの旗幟も鮮明にし得ず、「中立」宣言に留めようとした。しかし、このような態度は、浙江省内各階層に燻っていた護国軍支持の世論を逆撫でしただけだった。ついに4月12日、呂公望ら護国軍支持派によるクーデターが発生し、朱は上海へ逃亡した。 その後、かねてから患っていた肺病が悪化し、天津へ移った後の同年8月3日、死去した。享年34。
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