護国戦争と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/13 09:04 UTC 版)
同年、袁世凱が皇帝即位を画策すると、殷承瓛は蔡鍔とともに北京から逃亡し、雲南へ戻る。12月、袁が皇帝に即位すると、蔡は唐継尭らと協力して、袁討伐のための護国戦争(第三革命)を昆明で発動した。殷は蔡が率いる護国第1軍参議に任命され、四川へ出兵した。 護国戦争勝利後の1916年(民国5年)8月13日、殷承瓛は劉鋭恒の後任として川辺鎮守使に任命された。しかし翌1917年(民国6年)、同じ雲南派の軍人である羅佩金が四川で敗北し、雲南へ撤退してしまう。そのため殷も地位を保つことができず、やはり雲南へ引き上げた以後、殷は軍事や政治に関与しようとせず、引退した。 殷承瓛の最期については、説が様々に分かれている。『陸良県志』は、引退後に上海へ赴いてチベット密教に傾倒し、1945年(民国34年)に上海で死去としている。しかし『雲南省志 人物志』は、同年に昆明で死去としており、『中国国民党百年人物全書』 は1946年(民国35年)中に死去して同年9月10日に国民政府から追悼・顕彰を受けたとし、さらに『民国人物大辞典 増訂版』は1946年(民国35年)12月1日、昆明で死去としている。
※この「護国戦争と晩年」の解説は、「殷承瓛」の解説の一部です。
「護国戦争と晩年」を含む「殷承瓛」の記事については、「殷承瓛」の概要を参照ください。
- 護国戦争と晩年のページへのリンク