護国戦争での敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 14:00 UTC 版)
1915年(民国4年)、竜済光は袁世凱の皇帝即位を支持した。同年12月25日に勃発した護国戦争では、竜は積極的に護国軍討伐に動いた。翌民国5年1月28日には、袁世凱から「郡王」に封じられている。 しかし、3月15日に広西省の陸栄廷が独立を宣言し、さらにその1週間後の22日に袁世凱が皇帝即位の取消しを宣言する。これにより、竜済光は南方で孤立していくことになった。そして、護国軍の李烈鈞や陸栄廷の脅威に屈する形で、4月6日、竜もついに広東独立を宣言した。 6月6日に袁世凱が病死すると、その3日後に竜済光は独立を取り消して北京政府への忠誠を宣言した。しかし李烈鈞・陸栄廷の攻勢は続く。そして同年10月、陸栄廷軍が広州入りし、竜は海南島へ逃亡した。 1917年(民国6年)11月、竜済光は北京政府から両広巡閲使に任命される。竜は孫文の護法運動に反対し、広州の陸栄廷を攻撃した。しかし1918年(民国7年)3月、李烈鈞の討伐を受け、同年5月には竜済光は広東から駆逐される。そして北京へ逃げ込んだ。 その後、安徽派・段祺瑞の庇護を受ける形で、竜済光は天津で振武軍と呼ばれる軍を組織した。しかしこの軍も、1920年(民国9年)7月の安直戦争で壊滅してしまう。これにより、竜済光は政治的・軍事的影響力を完全に喪失した。 1925年(民国14年)3月12日、北京で死去。享年59。
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