護国院と穀屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/05 18:34 UTC 版)
社寺参詣曼荼羅と本願には深いかかわりを認めるのが通説であるが、その具体的なありかたは個別の寺社に応じて一様ではない。紀三井寺参詣曼荼羅を所蔵する穀屋寺の名にもある「穀屋」とは、米などの穀物を喜捨として集める勧進聖の活動拠点を指しており、境内での穀屋坊舎の存在は、本願勢力による勧進活動が行われていたことを示唆する。穀屋寺は、紀三井寺参詣曼荼羅や熊野観心十界曼荼羅の他、元禄11年(1698年)付の「穀屋寺移転ニ付口上書」には、前述の再興縁起(文安6年〈1449年〉)や再興勧進帳(大永2年〈1522年〉)を所蔵するほか、勧進活動に関連して観音御影や牛玉宝印の版木を所持して配札を行っていたこと、さらには比丘尼寺であったことを伝えており、これらの点から穀屋坊が絵解きを行っていた可能性は高く、参詣曼荼羅の使用者であったことは推定できるものの、作成主体であったことを裏付けるに至るものではない。具体的な寺社の名を挙げるには至らないとはいえ、熊野観心十界曼荼羅をあわせて伝来することから、穀屋は熊野三山の本願所を本寺ないし出自としていると推定され、熊野の本願に所縁の工房で作成され、下賜に近い形で穀屋の所持となったと考えられる。 紀三井寺における穀屋坊は、熊野那智山などと同じように、近世に本坊との対立の末に衰退する事例の一つと考えられてきた。しかし、本坊護国院それ自体が本願勢力であり、学侶と本願の対立という図式で穀屋坊の衰退をとらえることは出来ない。前述の通り、元禄10年(1697年)の「紀三井寺再興覚書」には、穀屋比丘尼の春古が秀吉との交渉により焼討を回避した(天正13年〈1585年〉)とあるが、これはあくまで穀屋の側の立場ではあるものの、穀屋は本願護国院に先立つものであるという主張の一環である。「紀三井寺再興覚書」の記すところによれば、護国院は秀吉の紀州攻め以後の天正14年(1586年)に寺内に進出した新興勢力であり、勧進活動の道具である観音御影・牛玉宝印すら穀屋を模倣して活動にあたっていたといい、為光上人が竜宮から持ち帰った七つの宝物の一つである錫杖も本来は穀屋の所持に帰するものであったという。結局、穀屋は護国院によって本堂の側を追われて仁王門外に移動させられ、山内の子院の一つから末寺に格下げされるに至った。このような紀三井寺の本願護国院と穀屋の関係は、勧進聖の中での男僧と尼僧の支配関係の優劣を伺える事例とすることもできよう。
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